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行こう、天使の会!

光

「駄目だよ宿ちゃん! 君は人と手を繋ぐべきなんだ! そんな冷たい扇子で心ごと閉ざしてないで、人の手の温もりを感じなきゃならないんだよ!」

・目次

  1. 本文
  2. おわりに(作品内容に触れるため、本文読破後にお読みください)

・本文

 俺はこの度、一冊の文庫本を読み終えた。
 読んでいる最中に込み上げてやまなかった苛立ちからようやく解放されたことに気分を軽くした表れか、閉じた本を縦に上方めがけて高々と放り投げる。天井付近まで舞い上がった本は落下に転じる手前、装丁側を上向きに風圧によってか背表紙を境目にぱっくりと二つに割れ、大きな影を作り出す。
 丸いシーリングライトを背に羽を広げたかのようなその姿は、鳥の羽ばたきか、それとも天使か。
 ばらけたページが無秩序にはためくそれを上手く受け止めようと試みるも、案の定つかみ損ね、そこには不恰好な折り目が数本刻まれてしまう。
 とはいえ、こんな醜いしわもこの小説にはおあつらえ向きだった。
 その内容を大まかに説明すれば、とある新興宗教団体が悪事の限りを尽くすという極単純なものである。
 だが、俺はこの手の話が心底しゃくに触ってならなかった。教団の中心人物である教祖は金と女に目が眩んだしがない俗物、それにも拘わらず信者は増え続ける一方、教団も順調に拡大の一途をたどる。信者たちは本気でその教祖が神の代身だと信じ込み、入れ替わりその腕に抱かれ、時に神の尖兵を謳う凶悪な確信犯と化す。
 まず第一に、御都合主義の臭いが鼻に付き過ぎた。この作者自身が、自らを神とでも錯覚しているのだろうか? 人間をここまで浅はかに、愚かに描ききることには戦慄すら覚えてやまない。ほんの少し立ち止まって省察すれば、己の信奉の対象が嘘偽りで塗り固められた虚構の存在であることは火をみるよりも明らかであるはず。分かるはずなのだ、人間ならば。それを財産も家族も全てを犠牲にしてまで身を委ねるに値すると、彼らのいう救いとやらがそこに待っていると、現代文明に育まれた人類が本当にそこまで闇雲で無分別な愚衆と成り果てることができるものだろうか?
 ……いや、可能なのだ。宗教とはそういうもので、絶えず世界を良くも悪くも動かしてきた実績が紛れもなくそこにある。血なまぐさい戦争も、決して昔語りではない陰惨な犯罪も、それら引き金を一体何度引いたことだろうか。
 とある宗教家が、「まもなく世界は滅亡する」という。入信した者だけが逃れられるとうそぶき信者を増やし、案の定何も起こらなくとも「皆さんの祈りのおかげで滅亡を回避できたのです」とでものたまっておけば、信者は幻滅するどころかますます信心深く仕えるようになるのだという。もはや、笑う気にもなれない。
 憲法上の過剰保護、税制上のふざけた優遇、どんなわがままでも宗教上の理由で勝てる裁判……これら憂慮すべき事項を差し置いてでもなお、つくづく一般家庭の多くが無信教の国日本に生まれてよかったと思った次第である。
 ……だが、そんなものとは無縁な日常の中でも、宗教の影は忍び寄る。
 脇に置かれた、チラシの束を手に取る。道すがらに何の前触れもなく、はたまた自宅で四肢を伸ばしきってひと心地ついた折でさえ、奴らは所構わず手当たり次第にやって来る。あるときは流暢な日本語で金髪碧眼の外国人、またあるときは拙い日本語で生粋の日本人とその容貌こそ三者三様ではあったものの、それらが一様に開始する紋切り型の問いかけにこちらの発した返し文句は、既に音声のテープがすり切れんばかりに散々使い回されたものだった。
――申し訳ありませんが、あいにくそういったものには興味がありませんので――
『俗世の穢れを祓い落とす』『今のあなたは幸せではない』『虚構にまみれた現世で、ただひとつの真理を』……似たような文字が所狭く我が物顔でのさばった紙くずの山を真ん中でひとつかみにし、先に倣ったようにして再度、十分な初速を後押しに掌中のそれらをまとめて頭上へと放り出した。
 だが、それが高さを得ることはなかった。内実ともども薄っぺらな紙片群は空気抵抗故かたちどころに上向きへのベクトルを失う。取り留めもなく宙に散乱し、元の座標を文字通り空にしたそれらはさながら抜け落ちた羽根の寄せ集めだったかのごとき様相を呈しており、虫食いのようになった料理の並ぶテーブルのもとへと縦横無尽に降りかかる。
 我が家では、夕の食卓を囲んでいる真っ只中であった。
「あらあら、何やってんの!」
 既に食事は八割方終えてほとんどが皿のみの状態だったが、それでもゴミのばらまきをよしとしない母が机の上に覆い被さるように身を乗り出し、朝への持ち越しが内定していたであろうわずかばかり残ったおかずをそれらから守らんと両手で空気中をしっちゃかめっちゃかに掻き回す。
「マジあり得んし……バカじゃないの?」
 妹は、ちゃっかりと自分の器だけを被害区域から避難済み。
「……ビールに入るだろうがっ!」
 テレビの野球中継を肴に早めの晩酌をたしなんでいた父の片手がやにわにせり上がったかと思うや否や、凸凹に閉じた年季入りの拳がこちらの頭頂部めがけて真っ逆さまに勢い付いて落下する。
 出し抜けの衝撃に薄れていく意識の中、かすかに、てんで不ぞろいな家族各々の息遣いが、それでいていやに都合よく型に収まって漫然とした一体味を帯びた場の雰囲気が、確かに感じられる。
 呆れてものも言えないといった風に、深々と長い息を吐き出す母。ビールとつまみとを交互に、小気味よく飲み下す無言の父。侮蔑を全面に押し出してやたらと大きめな妹の独り言。
「殴られて笑ってるとか、キモっ……」
 そんな日常が……そして、このまどろみが、俺にとっては何よりも得難いこの世の救いだった。
 散らかした紙ゴミはその後、食器の油取りとなった。

 だが、永遠に続くかとも思われたそんな日々にも、にわかに暗雲が立ち込める。
 宗教の魔の手はすぐそこにも、今や俺の間際にまで迫ってきていたのだ。
「さあ行こう! お前も行こう!『憩う天使の会』へ!」
 いつもと変わらぬ朝の学校、隣席の友人に挨拶をした後に、返ってきた第一声が他ならぬコレだったのだ。
「……そんなに『行こう行こう』三回も言わなくたって聞いてるし、行かねーよ」
「何言ってんだよお前? 最後の『いこう』はレッツゴーの『行こう』じゃなくてレクリエーションの『憩う』。世の真理、神の御霊、真の御心だよぉ!」
「……何言ってんだお前?」
 俺は目の前の友人が全くの別人にすり替わっていないかを確認すべく、まじまじと友人の眼を覗き込む。珍しいものに伺いを立てるような態度に自身の動静を振り返ってくれればこれ幸いとの期待も虚しく、
「そんな熱のこもった眼で見られちゃっても、俺は既にフリーの身を卒業して彼女持ちだぜ!」
 俺は、友人が空中分解したことを確信した。
「彼女? 消費期限十年切れのバレンタインチョコを今なお後生大事に冷凍保存しているお前が、ここに来て何の冗談だ?」
「ところができちゃったのよねぇ〜。『憩う天使の会』に入った途端、先輩神兵の年上のお姉さんに、しかも逆ナンで! それとチョコは食った!」
 俺は、この状態の友人を捨て置くほどにドライな性格ではなかった。
「……して、その『憩う天使の会』とやらは何だ? 新手の新興宗教か何かか? お前はそこに入信した信者なのか?」
「そんなんじゃねぇって。『憩う天使の会』は俗世間の穢れを祓い落とし、社会が求めてやまない清廉潔白な人材としての第一歩を踏み出すための先進教育機関だよぉ! その証拠に、入信して崇高たる人間的魅力を引き出された会員にはほぼ百%恋人ができるんだぜ! 丁度俺みたいにさあ!」
 この気の良い友人の目を一刻も早く覚まさせんと、俺は昨日読んだ小説の内容を必死にたぐり寄せる。
「それは、あれか? 教祖が色狂いの脂ぎったオッサンで、若い女性信者を片っ端から洗脳してモノにしたり、岩を持ち上げるマジックを神の力とか言っちゃったり、会の脱走者や周辺をこそこそ嗅ぎ回ってる人物に人為的な神の裁きが下ったり……何か撒いたり」
「教祖様はそんな俗的な御方ではない! お前のそんな考えこそ世俗の穢れにまみれた下劣極まりないものだ! 現代社会の病理に毒された宇宙の害虫、真っ先に浄化されるべき旧人類そのものだ!」
 ……儚い期待は、宙へと霧散した。その根っこの純粋な部分を会の教義が付け入り染め上げ、言葉での説得が効を奏さない今、もはや残された手段は実力行使のただ一択。
 だが……
「……そうだな。今のままじゃこんな腐った世の中で、本当の生きる意味ってやつを見出せないのも事実だな」
 ここで、頭の中に一計の妙案が生じた。
「お前との関係が疎遠になるのも嫌だし、彼女も欲しいし……よし、俺にもその“憩う天使の会”ってやつがどんなものか一応説明してくれ。実際行くかどうかは、その話次第だけどな」
「やりぃ! 動機は若干不純だが、そのほうが教祖様と向かい合ったときの懺悔の深さがダンチってもんだ。体験入会はいつでも受け入れてるから、今度の土日どっちかでも実際に総本山に足を運んで説明を……」
「なら、日曜日にしようぜ。今度の土曜日は都合が悪くてな」
 一度、やってみたかったのだ。潜入調査とやらを。

 それからまもなくの休日、俺は実際に“憩う天使の会”の本部があるという町外れの一角にこの身を置いていた。
 ただし、今日は土曜日である。そしてもちろん連れはなく、ここに立っているのは俺ただ一人。
 いや、ですらなかった。癖毛の髪をワックスでストレートに固め、耳にはピアス風のイヤリング、大昔にふざけて百円ショップで買った老眼鏡を伊達眼鏡代わりに装着している(これらは、個人の識別によく用いられるという耳の形を隠すためでもある)。それぞれ別の場所でこの日のためだけに購入した古着を身に付け、靴も抜かりなく、随分前に履き潰したものに応急処置を加えただけのものを準備したため、慣れない靴で足をとられる心配もない。これらは、後日何らかの形ですぐに処分する予定である。感染病の嘔吐物のかかった着衣のような扱いは大げさに思うかもしれないが、それが世間をむしばむウイルスであるという点について相違があるとは思わなかった。
 教室の一件の後すぐに友人から予習と称し、体験入会であれば無料であること(どうせ早々に体験では済まなくするのだろう)、名前以外の住所等の記載も不要であること(入口は広くということか)等の情報を聞き出した。もちろんそれだけでなく、友人の家のパソコンから会にまつわる話を検索し(自宅のパソコンで密接した履歴を残したくないため)、ネットの地図サービスで逃走経路についても充分に思案を重ねた。無論、ここまで来る際にも足取りを追えないよう電車やバスを何台も迂回して乗り継いだことはいうまでもない。
 警戒し過ぎだと思われるかもしれないが、用心に越したことはなかった。よもや明日に友人と見学の約束を入れている俺が今日こうして訪れているとは考えまい。宗教団体は確信犯の集まり、もとい傀儡と化した狂信者たち犯罪者の巣窟であるという印象が付いてやまない。いくら好奇心からの物見遊山とはいえ、その信心の拙劣さをうっかり言外に含めて指摘するなりしたが最後、空虚たる信仰対象の正体を暴かれ、結果として自らの意義をも貶められたことに激した盲信者たちによってどんな目に遭わされたものか分かったものではなかった。
 当然のことながら、翌日の友人との予定は反故にするつもりでいる。悪気のない友人には申し訳ないことをしたと思ったが、その後日、ホームページで友人の説明にはなかった『紹介料』の一文を見かけて以来罪悪感はどうでもよくなっていた。
 これは、“会”の言葉によって救われた一例である。
 片脇にはどこかさびれた色合いを帯びた未舗装の路地には似つかわしくない、あくまで侵入防止のみを謳いはるか上方に鉄条網を絡ませた真新しさの残るコンクリート壁。その向こう側には、尖塔の群れを思わせる針葉樹の無秩序に立ち並ぶ様が見え隠れする。
 それらを横目に沿って数十メートル進むと、やがて塀が少し落ちくぼんだところで途切れ、向かって正面の窓を横に広く設けたそこだけやたらと古めかしい掘っ建て小屋のような建物が姿を現した。
「本日の体験入会御希望の方はこちらにて承っておりまーす!」
 その中で、白装束をまとった受付らしき女性二人がこちらを視界に捉えるなり、振袖がずれ下がるのも構わずに大きく手を振ってみせる。
 豊かな黒髪を蓄え、たもとをたくし上げながら拡声器の要領で口元に手を添えるはつらつとした仕草の底に滲んだ艶めかしさといったら、まさしくウェブのトップページに掲載されていた案内写真と瓜二つ。なるほど確かに上等な広告塔で、屈託を感じさせないその笑顔にころっと騙されてしまう世の男性陣もさぞかしや多かろう。
 だが、こんな宗教の呼び込みに加担していることからその本性も推して知るべしである。俺は、こんな手合の色仕掛けに引っかかるほど間抜けな人種ではなかった。
 受付で簡潔な記入事項を済ませると、横に走らせた錆ひとつない黒鉄に黒ずんだ平板を打ち付けた巨大な木製の門を潜り抜け、敷地内へと案内される。しばらく歩いたところで角を曲がると、それまで入口方向からは樹林の陰になっていた、日本大家の旧家屋を連想させるいかめしい幅広の平屋建造物がその全貌を明らかにした。
「本日の体験入会者の方にはまず、これからお通しする修練用の大広間で定時まで黙想に耽って頂き、現世から持ち込んだ邪念を祓い落してもらう必要があります。その後、会の幹部から簡単な説明を受けて頂いた後で、我らが偉大なる教祖様と対面してもらいます。そこであなた方には、教祖様の織り成す奇跡に触れて頂き……」
 建物の玄関手前で立ち止まり、明らかに常軌を逸した気分の高揚で以て陶然と語り始める女性信者。マイク越しでもないのに不自然に残響がかったその異様な振動音に心底耳にダメージを覚えながらも、
「……あの、ひとつ、お願いをしてよろしいでしょうか?」
 行動のタイミングを図ることに、抜かりはなかった。
「急にお腹の具合が……申し訳ありませんが、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか?」
 このまま奴らの案内する順路に沿って身を流したところで、見せつけられるのは所詮奴らが設えた取り繕った体面だけである。今この機を逃して、そんな奴らの裏の顔を拝める日はそう来まい。
「お手洗い……ですか? ……大変恐縮ですが、そういったものは御自宅で解消して頂くよう、ホームページ上の要綱でも強く念を押していたはずです。未だみそぎを済ませていない不浄な方との共用を快く思わない敬虔な信者も多数おりますので……」
 それが、一層つついてみたさを掻き立てるというのだ。
「僕はIBSで昔から腹の調子を崩しやすく、これまでもずっとトイレの暇のない窮屈な学校のスケジュールや清掃の行き届いていない垂れ流したままで緊急時に紙すら置いていない公共の場所にずっと苦しめられてきたんですよ! この会は、そんな僕みたいな社会からつま弾きにされたのけ者を救ってくれる受け皿じゃなかったんですかっ!」
 いかにもそれらしく、情緒不安定に俄然怒りを露にする。せっかく生け捕ったカモを逃がすまいと取りも直さず狼狽する目の前の女性信者に吹き出しそうになるのを必死にこらえ、緩んだ表情はそのまましかめっ面に流用、苦しさを演出。
「……分かりました。上の者には後で私が伺いを立てておきますので、心配しないで下さい。他の信者も、それがあなたに手を差し伸べることになるならばきっと納得します」
 おもむろに襟元を正し、心もちその目つきが慈愛をたたえた女性信者が別方向に先導を改めんと、こちらの脇を素通りしかける。それを慌てて制し、
「だ、大丈夫です! 音が恥ずかしいし待たせちゃ悪いし……長いかもしれないし、場所さえ教えて頂ければ一人で勝手に済ませてきます! ほら、次の希望者がお見えになったようですし、どうぞあちらの方の手助けに戻って下さい!」
 無論、一人で自由に歩き回るための方便だが、別段嘘も言っていない。
「しかし、広い建物ですから、万が一迷子にでもなって……」
「心配いりません。実家もこの程度の広さですし、構造なら大体把握できます!」
 こればかりは真っ赤な嘘で、自宅は普通の集合住宅の一室。一応祖父母の家は田舎の一軒家だが、いうまでもなく町の一角そのものの規模を誇るこれとは比べようもなく、それこそ猫の表面積で換算すれば体と額ほど。田畑も含めればあるいは……とも思ったが、そういえば祖父母の田畑の広さなど考えたこともなかった。
 だが、このでまかせには単なるその場しのぎ以上の意味があった。縁もゆかりもない大邸宅という実家の存在をあくまで匂わせる程度に触れておくことによって、万が一こちらの素性を探られる羽目になったとしても、向こうが勝手に自分とは程遠い人間像を描いてくれることを期待したうえでの計算ずくの言動だった。
 おおまかな場所を聞き出してその場を後にし、いよいよ本日の第一目的である調査活動を開始。一見すると監視カメラの類は見当たらないが、節穴等に隠されているだけかもしれないのでひとまずはトイレに向かって歩き出した。
 滑らかに磨かれた板張りの廊下はがっしりとした作りできしみ一つせず、美しい木目調を前面に押し出した巨大な柱は両腕をいっぱいに回してもなおあり余り、絶大な信頼感とともに寡黙にそびえ立っている。広々とした日本風庭園にはその身に歴史を刻んだ石灯籠がうっそうとした苔をまとい、悠久の時を思わせる枯山水が風情豊かに波渦を描いていた。
 何だかんだいったところでこちらは一介の小市民。マンション暮らしの小スケールにどっぷり浸かったこの身では、真っ直ぐトイレに向かう傍らにもこれらの見慣れない造形に目移りせずにはいられないのだ。見た目のきらびやかさを嫌った堅実な小細工がそこかしこに散りばめられ、まさしく由緒正しき日本の伝統、文化的遺産級の価値を存分に含み、世界への誇りが詰まっているといっても過言ではない。
 だからこそ許し難いのだ。これほどまでの荘厳な純和風建築物が、いかがわしい西洋かぶれの卑俗宗教の巣窟として乗っ取られているという事実が、より一層の義憤を駆り立てる。
 雄大な三色錦鯉のグラデーションが滲む池をまたぐ石橋や挑発的に配置された飛び石をこの足で直に踏み鳴らしたい衝動を再三覚えつつもその都度奪われた目線を屋内へと引き戻し、それでも数歩後には名残惜しくなり一度ぐらい童心に返ろうと決意するもやはり目立つからと思いとどまり、むしろ跳ね回ったほうが洗脳しやすい幼稚な信者候補に映るのではないかとそうこう考えているうちに……
 迷った。
 後ろ髪を引かれる思いを抱いたまま、半ば上の空だったにも拘わらずずんずんと突き進んだことがまずかったらしい。気が付けば同じところをぐるぐると回っているようで、建物のどの当たりにいるのかさえ全く見当がつかない。認めたくないものだが、四人家族の3LDK暮らしが肌に染みついたこの体相手には思いの外無謀な挑戦だったという。
 誰かに場所を尋ねようにも、本当に人っ子ひとり見当たらないのだ。行の時間とでもいうのか物音ひとつせず不気味に静まり返り、そのことが実体のないかりそめの教義の支配する家屋であることを強調する半面、いいようのないがらんどうの閉塞感が得体の知れない恐怖となって喉元を絞めつける。
 ならばいっそ、単に好奇心からうろつき回っていたと言い繕うよりも純粋に迷っていたと弁解するほうが一連の行動にリアリティが出るのではないかと前向きに捉えようともしたが、何しろリアリティどころかリアルである。人恋しさにそこかしこの障子戸を開け放ち秘密の儀式の最中にばったり出くわしたが最後、前もって段取った脱出経路の一端にすらたどり着けぬまま口封じとして良くて廃人にされかねない。そのうえ偽名を使ったとはいえ自発的にのこのことやって来た挙句、以前から興味を持っていたらしいというクラスの友人の証言とも相まって、世間的な立場は自業自得の無思慮な若者というそこいらの石ころと同じ位置付けに。
 人がいても不安、いなくても不安。一刻も早くここから抜け出そうにも、もはや方向感覚もままならない。緊張由来の動悸も著しく、ほとほと狼狽しきって幾度と目がお世話になった壁に手をつくと……
「――ぅおっっ!」
 まさかの、どんでん返しである。
 思わず声が出てしまうほどに突拍子もなく、支えが固定を解いて後ろに流れる。一度預けた自重を引き戻せるはずもなくあっという間に引きずり込まれ、あっさりと元に収まった回転扉に突き放されたこの身がぽっかりと空いた空間に一人置き去りにされる。
――予期せずして、当初の目的を果たしてしまった。
 悪事にはもってこいのいかにもな隠し部屋。打ちっ放しではなく外側と同じ内装の廊下が縦に伸び、奥まった箇所のひとつ扉には特に頑丈な錠前が取り付けられているわけでもない。
 しかしながら、これほどの容積を内部に抱えた壁が、今の今まで通常の厚さを演じてきたのだ。道理で実際の間取りと体感のそれとが噛み合わないわけで、両者の齟齬がこちら側の空間認識に狂いを生じさせたのだと合点がいった。
 とはいえ、自身の方向音痴に理由付けをしている場合などではない。こんなところに潜り込んでいることが知られれば今度こそ一巻の終わり、どうせ廊下は無人のままだろうと高をくくって踵を返そうと同じ仕掛け戸に再度手をかけようとした矢先、
「誰じゃ、そこにおるのは?」
 距離を隔てた反対側の扉のほうから、やけに低くくぐもった声が滔々と流れ出してきたではないか。
「……ふむ、どうやら子羊が一匹迷い込んでしまったようじゃな。苦しゅうないぞ、入って参れ」
――万事休す、か。
 完全に、こちらの居場所を探り当てられている。尻尾を巻いて逃げ出したところで、この部屋に限って剥き出しで睨みつける監視カメラもあって不審人物としてマークされるのは必至。ここはひとまず潔く自分の存在を認め、素直に迷い込んだことを白状して元の場所に送ってくれるよう頼んでみよう。何しろそれだけは事実なのだから……
 もっとも、たとえ事実でも自分に都合が悪ければ頑としてそれを受け入れない輩が跋扈する世の中で、それすらも絶対的なアドバンテージにはならないのだが。
「丁度退屈を持て余していたところなのじゃ。ささ、早う来んかうすのろめが。余は待ちくたびれておるぞ」
――随分と、偉そうな物言いである。
 わざとらしく浮ついた現実感のない口調にせき立てられ、そんな漫画染みたふざけた口上への苛立ちまじりに無防備な声を横に滑らせる。わざわざこんな秘密部屋に住まっているうえ、監禁されている様子もない。恐らく会の中でも相当位の高い人物であるはず。反感はおくびにも出すまいと努めたうえで、一体どんな顔をした脂ぎったジジイなのかとかじりつくような視線をその室内の先に送るや否や……
「これ、何をそんなところでぼけっと突っ立っておる! とっとと戸を閉めて上がらんかえ」
「――はい?」
 がぶりとかじりつくどころか、ぱっくりと、面を食らった。
 六畳の座敷中央、座布団の上にちょこんと居座った小柄の主は、背中を丸めたよわい老人などではなかった。むしろ、背筋はしゃんと反り返っている。骨張っているというよりも華奢な体躯が恰幅の余ったはかまの裏側から細身の陰影を浮かび上がらせ、しわひとつない真っ白な指先が顔の前に広げた扇子を音を立ててばちんと閉じる。
 棒状にまとまったそれが左右に分断した顔立ちは、どこからどう見ても子どもだった。それも、高く見積もってせいぜいが中学生の、年端もいかない可憐な少女に過ぎなかったのだ。
「君は……誰? それに、そのしゃべり方は……?」
「しゃべりは趣味だ、気にするでない。それよりも、人に名を尋ねる際はまず己から名乗るのが当然の礼儀というものであろう。今どきの若輩者はそんなことも知らんのか?」
 ひな人形のようにぱっつりと切りそろえられた黒髪をしれっと解かし、扇子の先をこちらの鼻先めがけてばしっと突き付ける。
「お、俺は、今日の体験入会生の一人で、トイレの帰りに壁に手をついた途端にすっぽりとそれが抜けて……」
 正直に迷っていたことを打ち明ける筋書きが、すんでのところで喉につかえた。大人相手ならまだしも、こんな物事も覚えたての子どもに面と向かって情けないいきさつをさらすことをつまらない意地が阻む。
「それで、何でお前みたいなガキが年に見合わず偉そうにふんぞり返って……」
「それ以上一歩も動くなっ!」
――打ち鳴らす陣太鼓のごとく、けたたましく雪崩れ込む乾いた木の音は二の次。開け放したままの戸を隔てたどんでん返しから一様に白装束を着込んだ信者と思しき幾人もの男女が血相を変えて駆け込んでくる。
 さすまたに竹槍、果てにはなぎなたや日本刀の真剣、洋物のサーベル等、その手に握られたるはそうそうたる殺傷武器の顔ぶれ。出入り口は仕掛け扉ひとつのどん詰まり、銃刀法も真っ青なそれらが面前で煌々と光を帯び、いよいよ体も凍りついてしまったところを……
「よい、この者は余が招いたのじゃ。下がっておれぃっ!」
 一歩も動じることなく膝を合わせた姿勢で鎮座し続ける少女が、一喝とともに扇子を小気味よく横に広げ、彼らの下へと袖を鳴らして差し向ける。
「しかし、教祖様の身にもしものことがおありになっては……」
――教祖?
「案ずるな。少々退屈を持て余していたところ、こやつはこの場で余が説いてしんぜよう。物騒なものを並べてはこやつも居苦しかろうて。うぬらはからくり戸の外で控えておれい!」
「承知致しました、教祖様!」
 一度の号令で、一斉に退散していく大の大人たち。静けさを取り戻したひと間は、元通り二人きりの空間へとその体を押し戻す。
 気後れひとつすることなく、小さな口が朗々と言葉を発した。
「……うむ、自己紹介がまだであったな。余の名は神野かみの宿やどり、この“憩う天使の会”の創始者にして偉大なる指導者、神に仕える代弁者たる教祖であるぞ」
――こんな設定が、現実に存在し得るのだろうか。
「えっと……君、じゃなかった教祖様。学校でも、そのようなしゃべり方でおらせられるのでいらっしゃいますか?」
「学校など行っておらん」
 国民の三大義務違反、露見。
「……不登校? それとも、普通の低俗な子どもなんかとは付き合ってられないとか?」
「というより、戸籍がないのじゃ」
 愛人の隠し子? 不法入国者?
「余も以前は普通の幼子であった。もっとも、毎日のように母親に背中をベルトで打たれ、煙草の火を押し付けられ、熱湯を注がれ、それらの荒療治として一晩中冷たいベランダの床に寝かされたりはしていたがな」
 児童虐待。
「そのうち母親はしょっちゅう家に連れ込んでいた若い男と出かけたきり戻ってこなくなり、父親は競輪のプロになると言ってろくに家に寄り付かなくなった。余はその間、摘んできた雑草をよく一人で煮たものじゃ」
 保護責任者遺棄。
「やがてある日突然父と母が夜中に一緒に帰ってきて、久しぶりに家族そろって海までドライブをしようと言いだしてきかなかった。そうして海に向かったのはよかったが、運転席の父は何故かハンドルを握らずに助手席の母と手を繋いだまま動かなくなり、そのままフェンスをぶち破って車ごと海に落下してしまったのじゃ。ちなみに、放物線など描く暇もなくあっという間だったぞ」
 そして、とどめの一家心中。
「どうやら余はそれで死んだことになったらしくてな。実際は船体に日本語が書いてあったにも拘わらず日本語が通じない小型漁船に拾われて、私をよそに丁々発止の大口論が繰り広げられて一人二人海に落ちた挙句、しまいにはなけなしの日本円を持たされて日本海沿岸の小さな漁港に置き去りにされたのだ」
 少女の命を救った、心優しき密漁者たちの勇気ある決断。
「その後の紆余曲折を経て、施設まがいのところにいた余の才を見出した者どもによってこの会の教祖に祭り上げられたというわけじゃな。余の名もそのとき勝手に付けたのじゃ。でなければ、こんな都合のよい名前が出来上がるわけなかろう。なあに、余のような境遇はさほど珍しくもあるまい。特に某国では人っ子ひとり政策なるものの弊害で闇に葬られた子どもたちが大勢いるということではないか」
 俺の中学時代の英語のテキストには、その某国出身というキャラクターが兄なるものを紹介する単元があったのだが。
「……して、教祖様はそんな自分を貧しい生活から救い出してくれた人たちの御恩に報いるために客寄せパ……その人たちの手助けをしているということなのでしょうか?」
 終始飄々とした口ぶりで、どこからどこまでが本当なのかまるで判別がつかない。何から何までを真っ赤な嘘と言いきるにはあまりにも淀みなく、つらつらと作り話に遠慮がなさ過ぎる。あるいは、薬等で単にそう思い込まされているだけなのかもしれない。
「なぁに、恩返しといってもそう大層なものではない。神妙な顔をしてぼけっと座る傍らに時たま台本を暇つぶし代わりに読み上げ、後は神のお告げとでも称して適当に思いつくままを一言二言述べればそれで終わりじゃ。一番大変だったといえば、くしゃみを我慢するのが辛かったことかのぅ……」
 何かと世慣れて人を食った風の言動が目立つ子ではあるものの、その印象は生意気の範疇を出るものではなかった。扇子の向こうに覗く目は嬉々として屈託なく、知り得たばかりの取り留めもない知識を大人相手に得意げに話すときのまさにそれのように爛々と輝きを放っている。
「――それが、たとえ悪事に加担することだったとしてもかい?」
 だからこそ、救わねばならない。
「……ほう。そなたは、余が犯罪に手を染めているとでも?」
「違う! そうじゃない! 君は悪くないんだ! 罰すべきなのは、拾ってもらったという負い目から君が逆らえる立場にないのをいいことにそんなことを強要するここの連中なんだ! 君が責任を感じることはこれっぽっちもないんだよ!」
 目の前で虚構の壁に囚われきった不運な少女の目を覚まさせてあげることが、この会をおしゃかにできる一番の近道に思えた。会自らが求心力としてたてまつった彼女が、己の意思で進んで役目を放棄するのだ。即座に解散とまではいかないだろうが、信者たちの募る疑念と移ろいの世に不変を謳った自らとの自己矛盾も加わって、遅かれ早かれ瓦解していくこととなろう。
「『教祖様』から『君』に敬称がぞんざいになってきておるぞ。そのような呼ばれ方は慣れておらぬせいか、どうにもこそばゆく感じて落ち着かんのぅ……」
「それこそが、君の中の常識が奴らによって狂わされていることの何よりの証明なんだ! 本来君くらいの年なら学校に行くことが楽しくてたまらず、毎日のように友達とそう呼び合っていたはずなんだよ! そんな光に満ちた世界を奴らは君からひた隠しにし、あまつさえこんな幽閉場所を宛がって……」
「ふむ……お主は何か勘違いをしているようじゃのう……」
 弄ばれていた扇子がパチンと閉じられ、その動きを停止する。
「この部屋も余が所望したもの。一見殺風景だが、娯楽品は床下に一通りそろっておるので不自由はない。学び舎へ通わぬのも余の意思じゃ。それに、どうもお主は先ほどから余が会の連中に一方的に利用されてたてまつられているだけのように申しておるが、そうではない。余には有象無象の女子おなごには替え難い特異な力を天より与えられている故、これをそれなりの地位を得るための交渉材料とし、こちらも奴らのことを積極的に利用しているだけに過ぎん。なにしろ……」
 危険信号が灯った。自分を特別な人間だと思い込ませ、ほめそやし持ち上げてその気にさせる。しまいには、現実にそれを実証すべく超能力と称して人為的に……
「余には、超能力があるのじゃ!」
 手遅れになっていた。
 宗教、子ども、そして超能力という、魔の三要素があっさりとそろい踏みしてしまった。
「……君、いや、宿ちゃん。いいかい? よく聞くんだ」
 自分よりひと回りも小さい無垢な手のひらを両手で握りしめんと差し出すも、扇子でそれを追い払われ頑なに拒まれる。
「な、何をする無礼者っ! 言うこと欠いて『ちゃん』付けか! 余の耳を腐らせる気か! 果てには物理的な粗相まで……直ちにその手を引っ込めい!」
「駄目だよ宿ちゃん! 君は人と手を繋ぐべきなんだ! そんな冷たい扇子で心ごと閉ざしてないで、人の手の温もりを感じなきゃならないんだよ!」
 強引に扇子をもぎ取ったあとの裸になった両手を力いっぱいに包み込み、両眼を見据えて全身全霊を込めた決死の説得を試みる。危険な橋を渡るつもりなど毛頭なかったものの、この現状をみすみす黙ってみているわけにもいかない。
「また何か誤解しておるようだが……おおかた時勢に疎い小娘の説得など容易だと睨んでおるのじゃろう? 安い男の考えつきそうなことよ。手が汗ばんでおるぞ」
 気後れしまいとあごを突き上げて威勢を張る姿の、何と縮こましくいじらしいことか。
「よく聞いて宿ちゃん、世の中には超能力なんてものは物理法則上存在しないんだ。そう見えるのは、全部何かしらのトリックを使った嘘っぱちなんだよ。もし君が本当に超能力を使えるんだったら、今ここで誰も呼ばずに物を浮かせたり僕のポケットの中身を透視したりしてごらん? できないだろう? 誰かのお膳立てが必要な力なんて、神秘でも何でもないだろう? 認めたくないだろうけど、君はごく普通の女の子でしかないんだ。そんな君が調子に乗って使えもしない超能力を口からでまかせに連発して、ついには予言のひとつとして誰かの不幸を口走りでもしたらそれを忠実な信者たちが無理やりにでも現実に……」
「では聞くが、お主は余と比べてどれほど世の中のことを知り尽くしておるのじゃ?」
 透き通ったつぶらな瞳が、閉ざされた世界観からまっさらな疑問を投げかける鋭く尖った視線が、胸元に強く突き刺さる。
「お主として見たところたかが一介の高校生風情。そんな若輩者が、どうして超能力など存在するわけがないと断言するほどに世の森羅万象を余すところなく見納めることができたというのじゃ? 知りもしないのにないと言い張るのは、それこそ外部の情報にかどわかされてそれを常識と思いこまされるも同様ではないか」
 認識能力を罵ったことに対する、強烈な意趣返し。
 俺は、この手の話題にめっぽう耐性がなかった。部活動も長続きしなければアルバイトですらしたことがなく、芸能等の流行にも追いつけない。家族の輪を何より大切にしているということは、それ以外の居場所がないにも等しい。クラスの同級生が自己の多才な経験談をさも何とでもないといわんばかりに軽口でお披露目するのを背中越しに聞かされる度に、どうしようもない劣等感が胸中に去来してやまないものだった。
 そんな辛酸なめたる思いを連日味わっているからこそ、眼下のこの少女を、ひいては日本社会を守らんと粉骨砕身しているというのに、それすらも虚しく届かない。
「超能力にしたってそうじゃ。確かに余には、お主のいうように岩を浮かせたり物体を瞬時に移動させたりするような見た目に映える力は残念ながら与えられてはおらぬ。しかし、人がそうであるように能力自体もまた千差万別。例を挙げれば鉛筆を転がすことも、サイコロの目を操ることだってれっきとした超能力のひとつなのじゃ」
 力の抜けた両手をあっさりと振りほどかれ、何を示唆してか自由になった片手を宙を掻きつかむように顔の真横でかざしてみせる。
「余とてそう。それら前者と比べてはるかに地味ではあるものの、紛れもなく超能力と呼ぶべきものを余は持っている。余には、普通には見えないものが見えるのじゃ」
 相手をやりこめたからといって、そのことで優越感に浸るでもない。彼女は真剣なのだ。自分は本物の超能力者であると、心の底から信じきっているのだ。
「余には、赤い糸が見えるのじゃ!」
 真剣そのものだった。
 掲げた片手がもぞもぞと形を変え、気が付けば小指一本を立たせる恰好になっている。
 はさみがあれば、切りたい。
「余がこの能力の発現に至ったのは、まだ施設におった頃のこと。当時そこで働いておったとある男女の職員の小指同士の間に、ある日突然ぽぅっと赤い線が浮かんでおったのだ。そこで二人は結ばれたのかと率直に尋ねたところ、両人ぎょっとしてたちどころに顔を火にくべたように真っ赤にしおった。後に聞いたところ、どうやらその二人は職場に内緒でこっそり情を通じていたらしく、その日の午前中に籍を入れたばかりであったというのだ」
 唖然と声が発せない以前に、彼女の弁舌は流れるままにとどまることを知らず、こちらに言を挟む余地を割いてはくれない。この年齢でここまでの凛とした立ち居振る舞いができれば、それだけでも十分な才能だというのに、肝心の内容が内容である。
「それからも立て続けに誰が誰と付き合っているかを面白半分に言い当てておると次第にそれが話題となり、ある日実験として男女五人ずつを目の前に並べられ、カップルとしての正しい組み合わせを選ばせられたことがある。そのときの正答率はあいにく八〇%だったがのう」
「それはつまり、能力が不完全で一組外したってこと……あれ? それならせめて二組外したことに……?」
「頭の回転は速いようじゃな。本来ならばお主の言う通りになるのだが、そのときはどうしてもその一組だけは選べなかったのじゃ。お互いの赤い糸が、どういうわけかその場の誰とも結びついておらんかったのでな」
 淡々と、当時の場でもそのことをあっけらかんと指摘したのかと思うと、末恐ろしい。
「子ども心にもあれには悩んだものじゃ。何でもその者らはいわゆる仮面夫婦だったということで、ほどなく離婚したとか。結果として、余の力が本物だという何よりの決定打となったわけじゃな。これと似た例として、施設にボランティアとしてやって来た男女半々の学生四人が自称するカップル間で、糸が組同士をまたいで交差しておったこともある。そんなことを続けておるうちに評判を聞きつけたのか、充実した衣食住の見返りにこの会の教祖として引っ立てられたという次第なのじゃ」
「た、たとえそれが真実だとして、そんな能力が一体何のために……」
 ふと、クラスの友人ののぼせ上がった赤ら顔が脳裏をかすめた。
「そういえば、友人の友人が入会した途端に恋人に恵まれたって浮かれていたが、それってまさか……」
「うむ、余が“糸”を頼りに可能な限り勧めておる。つまるところ、荒んだ現代社会の問題を全て解決する鍵は“愛”に他ならぬ。人類に普遍たるフィジカルな欲求は言わずもがな、“誰かに必要とされたい”という近年騒ぎがちな存在意義の存否等精神面の充足に関してもこの上なき特効薬となる。愛する者を幸せにしたいという気持ちから仕事のモチベーションも高まり、景気回復に伴う財政の潤沢化から経済支援の幅も拡大、合計特殊出生率の上昇により少子高齢化にも歯止めがかかって国の将来の発展性も維持できるといういい事ずくめの大盤振る舞い! これらの思想に余も大いに賛同し、教祖という会の役柄を引き受けることを承服したというわけじゃ」
 つまり、この会の本質は恋人紹介所。その行動を通して、日本社会そのものをも救おうと努めている。
「そして君は、縁結びの神様ということに……」
「うむ! では、デモンストレーション代わりにお主の運命の相手とやらも探し当ててしんぜよう!」
 言うなり座布団の上から体を起こし、座敷を後にどんでん返しのほうへと向かってゆったりとすり足で歩き始めた。長らく正座をしっ放しだったというのに、足下にあって然るべきおぼつかなさは全く以て見受けられない。
「お、俺の指にも糸があるんですかっ!?」
「無論じゃ! それも、太さや動きから判断して意外と近いところに相手はおる。余の目に映る糸はあらゆる状況を考慮したうえでの最終決定項、そこにもしもはない。何人たりとも神の定めには逆らえぬのじゃ!」
 どんでん返しを潜り抜け、外に侍っていた信者と二言三言を交わす彼女に続こうとすると、
「お主は中で待っておれ。糸の片端にちょこまかされてはこちとて都合が悪い。こんがらがってたどりづらくなってしまうわ」
「ア、アナログにたどっているんですか……」
「然り! 堅実なローテクというわけじゃ。では、参ろうとするかの」
 屈強な信者二人を左右に付き従え、そのままこちらから死角となる向こう側の入口脇へとそろって消えていってしまった。独り待ちぼうけをくらい手持ち無沙汰に立ち尽くしていることしかできなかったものの、不意にどんでん返しがそこに面した廊下を見通せるまま開けっ放しになっていたことに気付き、慌てて元に戻そうと近付いて手をかけたところに……
 目と鼻の先を、行きがけとは逆の方向から彼女の横顔がぬっと姿を現したのだ。
 よもやものの数分で帰ってくるとは思いもよらず、驚きのあまりとっさに扉を閉め切り視界から完全遮断。さすがに気まずさを覚えてこの無礼にどう言い訳をつけようかと考えあぐねているうちに、いくら経っても誰も入って来ないことに首を傾げて自分からそっと隙間を作り外側を窺ったところ、何ひとつ人影が見当たらなかったことで気のせいだったのだろうとほっと胸をなで下ろしたのも束の間……
 またしても、壁との間を遮るようにして、彼女の体の側面が陰からひょっこりと割り込んできたのだ。
 今度こそ入ってくるのかと身構えるも、そんな自分をあざ笑うかのように彼女はこちらに一瞥もくれることなく入口の縁から縁までを再び素通りしていってしまう。
 その後も幾度となく一定の間隔で彼女はすぐそこまで姿を見せにくるものの、どういうわけか一言も発することなく真剣な表情で決まった向きを通り過ぎていくのみ。さすがに信仰心の厚いであろう護衛役といえどもこの不可解な道筋には戸惑いを隠しきれないらしく、その足取りからはじれったさが見てとれる。
 そうした周囲の困惑にも迷うことなく、五、六周は回ったろうか。ようやく彼女は抜け穴を隔てたこちらの視界の直線上ではたと足を止め、入口手前に向き直ると半開きの回転戸を気にする素振りもなくそれをおもむろに潜り抜けて眼前に舞い戻る。
「ひょっとして、途中で見失って必死に探し回ってたとか……?」
 こちらの問いにもかぶりを振ることなく、脇をすり抜ける彼女。命令が更新されない護衛はなおもついて来ざるを得ないらしく、とりあえずといった具合に牽制の合図を送る。
 ついには無言のまま最初の座敷にまで収まり、中央付近に踏まえるとつられて入ってきたこちらを振り向いたのを最後に一切の動作を停止させてしまった。唯一感情を推察できる両眼はいやに据わっており、ただこちらが逃げ帰ることは許すまいとする気概を放つばかり。
 沈黙が覆いかぶさる重苦しい空気に息が詰まりかけたその時、とうとう彼女がぎこちなくその唇をこじ開けた。
「……あり得ん」
 ぽつりと、抑揚の欠けた消え入りそうな呟きがこぼれ出る。
「な、何がですか――」
 と、横やりを入れたその切っ先が、
「ありえんありえんありえんありえんありえーんっ!」
 突如としてへしゃげるほどの大剣幕が大量の泡となって顔中に襲いかかった。
「認めん、余は認めんぞ! 何が神の意思じゃ、天の定めじゃ! そんなものはくそくらえじゃ! 背反じゃああぁぁぁ〜!」
「教祖様、お気を確かに!」
「教祖様が御乱心だーっ!」
 なりふり構わず頭髪を振り乱して総身をよじり倒す彼女を、眺める誰もが呆気にとられて為す術ない。
 皆が止めることなく、彼女の扇子が宙に舞う。
「嘘じゃああぁぁ〜っっ!」
 ひとりでに開いたそれとそっくり瓜二つに、袖を広げた彼女のシルエットが高々と飛び跳ねてひとつに重なり、塞いだ視界を徐々に圧迫していく。

 それから十年後、会の規模は拡大の一途をたどり、その影響力は日本の政財界を牛耳るまでに膨れ上がった。
 そんな大所帯を、一糸乱すこともなく統率するは気高き品位をものとした若く凛々しい稀代の女教祖。
 そして、その傍らにはいついかなるときも決して彼女の下を離れることのない、生涯の伴侶たる男の姿があった。

(完)


・おわりに

 森村誠一氏の『炎の条件』を読んだ後に発作的に浮かんだ作品で、完全に気分転換目的で書きました。ギャグを目的にするとどうしても直視しがたい恥ずかしいやりとりが目立ってしまい、「普段の頭もこんなことでいっぱいなのか」と疑われやしないか不安になります。それを思えば、真面目もとい暗いないし胸糞悪い展開を書くのは気が楽です。

 実際に執筆開始に至った動機は、「行こう、憩う〜」という言葉遊びをひらめいたことに始まります。しかし今になって、もっとしつこく音を重ねておけばよかったと若干後悔しています。たとえば、「俺の意向は、威光あふれる憩う天使の会に行こうということだ!」とでも。とはいえ一度完成させた作品にいつまでも拘泥するのは時間の無駄なので、これ以降に書くべき作品に移行したいと思います。その作品を未完成のまま遺稿としないためにも。

(最後まで読んでくださり、ありがとうございました)


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