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たんと三人の男

目をみはる猫

どんなに振り払おうと決して滴り落ちることをせず、紛れもない自分の一部であることを誇示するかのごとく、皮膚に絡み、手相に食い込んでいく。
肉に、染みていく。血管を覆っていく、骨の芯を腐らせていく。

・目次

  1. 本文
  2. おわりに(作品内容に触れるため、本文読破後にお読みください)

・本文

 自分は、大学構内の掲示板の前に立っていた。
 時期は長期休暇の入口手前、つまりは学期を締め括る定期試験の真っ只中。今から臨む試験科目の教室を最後にひと目確認、あるいはそれらが全て済んで夏休みに入ったことの再認識のため、狭いボード内の更に小さなA3用紙が見下ろす辺りは右も左もままならない黒山だかりの様相を呈している。
 自分は、すこぶる機嫌が悪かった。建物の向こうに時折こだまする歓声や、耳元でささやかれる先のテストを軽いと評する声、全日程の終了を宣伝する会話の一端がより一層神経を逆撫でる。
 ヤマが、完全に外れていたのだ。つてを伝って掻き集めた過去問が、今回に限って全く用を成さなかった。いや、むしろ足かせであったといってもよい。見出した傾向から確信をもった予想範囲に的を絞った結果、他の単元には一切手の及ばない状況に陥ってしまっていたのだ。そうして挑んだ今しがたのテストの出来は惨憺たるもので、辛うじて記憶に残る授業中の知識をただ闇雲に何の脈絡もなく書き連ねるという無様な醜態を白紙にありありとさらけ出しただけに終わった。講師は採点に当たって一切妥協しないことを毎回に渡ってくどく念を押しており、加えて他の学生に至っても終了時刻以前に答案を続々と提出して帰って行ったことから、難易度自体はそこまでのものではなかったに違いない。仮に平均点が自分並みなら合格の見込みもあったかもしれないが、もはや操作や解釈でどうにかしてもらえるという淡い期待を抱くレベルをはるかに凌駕していた。
 時間割の都合上、社会法科目群に属するこの二単位を逃せば次のチャンスは来年に持ち越し、しかもそれが最後である。後期に開かれる別の講義は運悪くゼミの時間と被ってしまい、就職活動とぶつかる忙しい四年次の前期に受講せざるを得ない。そこで必須単位を満たせなければ、就職に成功しようがそんなことはお構いなしに留年を余儀なくされるのだ。
 これを、不条理といわずしてどうする? 三年次では追試も不可、再挑戦の機会ははるか先に限定され、それもたかだか追試を含めた二回のみ。それなりの広範囲を、ハードカバーの分厚いテキストを十数回に渡って学んだ後に、それらのたった一言二言の詳細の抽出にそれまでの全評価を委ねるなどは卒業要件としてあまりに不親切過ぎやしないか。
 そうだ。怒りの原因は何より時間なのだ。寝坊やアルバイト、サークル活動等でしばしば休みこそしたものの、自分はこの四ヶ月、否応なしにでも頭の片隅にはこの授業の存在を住まわせていなければならなかったのだ。休みの日でも、旅行の日取りにも、それもこれも将来の単位認定を思えばこその魚の小骨だった。
 それらが水泡に帰した今となっては、このためだけに割いた人生の余白はがらんどうに抜け落ちて跡には何も残らない。
 ただひとつ得たもの、それが、反動としての憤りだった。
 煮え立った脳髄が手足の感覚を痺れさせる。人混みに揉まれて熱を放出することが叶わず、体温はなおも上昇し続ける。口腔内にすえた臭いが充満し、いがらっぽさが込み上げてくる。
 とっさに、咳込んだ。雑踏に沈むように独りして膝を屈め、口をすぼめて二、三度喉の奥を激しく揺さぶる。
 口内の違和感はそれで治まったものの、今度はそれとすり替わったようにして口元に添えていた手の平に妙な感触が走る。
 見ると、たんがこびり付いていた。緑がかった黄色をした、不清潔な粘体。どんなに振り払おうと決して滴り落ちることをせず、紛れもない自分の一部であることを誇示するかのごとく、皮膚に絡み、手相に食い込んでいく。
 肉に、染みていく。血管を覆っていく、骨の芯を腐らせていく。
 放したい、離れたい。こんなものは俺じゃない。感覚は、着実に内側へと向かいつつある。
 自分のハンカチには、跡を残したくない。ティッシュは片手で扱える位置になく、出し入れの途中で二次被害を及ぼしかねない。他人の手は借りたくない、見られたくない。
 誰の目にも触れさせられない片手をひとときも気を抜けずに持て余し、人垣の中心にめり込んだまま途方に暮れる。
 ふと、面を上げたこの眼に映り込んだのは、見知らぬ学生の無愛想な背中。自分がこの場に陣取った当初から変わることなくそこにあり、その顔が振り向く姿もまだお目にかかっていない。肩にはたすき掛けで学生風の面白味のない黒鞄を携え、神経質そうに後方のファスナーをしきりに閉め直している。
 虫酸が走った。掲示板正面、学生の先頭に図々しく何分間も居座ってメモを取りながら、後ろの自分がさも物取りであるかのように絶えず持ち物を気にして止まない究極の自己偏重、被害妄想の視野狭窄。
 こいつになら、なすり付けてもいいかもしれない。
 何かしらの変化を望んでいるとしか思えない、幾度となく目の前に差し向けられる不愉快な手つき。
 一定の間隔で繰り返されるそれをしばし、最後の猶予という意味合いも兼ねて静かに見守る。やがて反対に頻度が悪化し、改善の余地なしと見受けられるようになると、いよいよ衝動が抑えようもなかった。真後ろといっても見方を緩めればそれが三、四人はいる密集状態であるし、せいぜいが各々の手元のみで誰もろくに下には注意を払っていない。無論、前方の学生も同様である。
 あの性懲りもなく置かれた手が次にどいた瞬間、そのときに、ファスナーのとって回りの布地部分にこの手の付着物を引き取ってもらおう。
 今、鞄が、この手が自由になった。

 俺は、講義棟の入口脇に設置されたガラス戸で仕切られた掲示板を目前に立ち往生を余儀なくされていた。前時限に受験した経済法試験を途中退室が禁止される終了時五分前間際で答案を提出して早めに切り上げ、人が疎らな時間帯を確保したことで外に貼り出された時間割表の前は悠々と見やすい角度に位置することができた。
 とはいえ、何も今更になって慌てて試験の日取りを写し取るなどという不手際は致すまい。俺が見落としていたもの、それは担当教官名なのだ。試験の監督官、要は毎週の講義にて幾度とお目にかかった教壇に立つ講師のこと。解答用紙には、貸与六法番号や座席順に並んでその名前を記す欄が決まって設けられている。
 学生間では誰それが厳しい、彼これはレポートだけで楽などと度々講師名を挙げての談話が弾み、たとえ抜き打ちだとしてもその名称の捻出はさほど難題ではないに違いない。しかし、俺の場合はわけが違っていた。学内における友人付き合いはほとんど皆無、世にいう学生のキャンパスライフとはほとほと縁もゆかりもない生活の反動故か、何より勉学に心血を注いできた。毎学期単位取得上限一杯まで履修登録し、三年時の今の今まで前時限のゼミが長引いたただ一回を除いて講義には欠席したことがなく、受講中もいかな些細な物事でも片言も聞き洩らすことなくノートに書き留め、ペンを置いたためしは数えるほど。
 そんな俺にとって各学期の集大成となる期末試験は、連日の授業で培い蓄積された知識や成果が大量の認定単位へと一瞬にして変貌を遂げる、快楽のひとときに他ならなかった。
 無論、過去問などつてはなく、見たことも触れたこともない。しかしそれでもこちらの構え過ぎも手伝ってか試験の難易度自体は終わってみればそう大したものではなく、一切の妥協を省いて常に満点を目指す姿勢でいれば最低でも合格点には達する。事実、これまでの成績判定で不可の二文字を突き付けられたことは一度としてない。
 だが、そんな俺に思わぬ伏兵としてしばしば立ち塞がるのが、先の教官名なのである。講義の内容こそ隅々まで抜かりなく目を通すものの、ことその発信者たる教員名に関してはいかんせん不必要に感ぜられて二の次になりがちで、実際の講義内でもせいぜい初回のガイダンス時くらいにしか紹介される機会もない。なかには毎回の配付レジュメで自己の名を付記する教員もいることにはいるのだが、それとてわずかに限られている。試験前日になってノート類を見返してみたところで、どこにも肝心の担当者名が載っていなかったということもざらなのだ。
 一部には自己主張の強い講師もおり、一年次における刑法の講師などは自身の名字が普通の読みでないこともあってか、それを漢字で正しく書かなかった者は問答無用で不合格にするとさえ言い放ったこともある。
 そのことで印象付けられたせいもあり、結果として欠かさず注意を払うようになったものの、それでも時として試験科目が多い学期には記憶から抜け落ちてしまうことがままあった。そして案の定、先ほどの今学期初の試験でもそれをすっかり失念してしまっており、冷や汗をかいたことはいうまでもない。もっとも、親切な講師だったらしく問題用紙にそれを含めた必須事項を丁寧に記載してくれていたおかげで事なきを得たのだが、それも決して大多数ではない。
 今日はこの後にも他に三つの試験を抱えている。辛うじて浮かび上がる名字のみを書いてお茶を濁したこともあったが、それだと講師の機嫌を損ねないかという不安からくる意識の乱れで解答に支障をきたす虞があり、事前のひと手間を惜しまずに越したことはない。
 しかし、運悪く手元に講師の名前を知る術を持たず、そのことで仕方なくわざわざ外の掲示板まで足を運ぶ羽目になった。試験の日程表では教官名は省略されており、平素の講義日程表にしか記されていない。そして、その通常の時間割表は後に掲示された試験表の手前その真下に貼り出される恰好になってしまっていた。従って、試験日程の確認に訪れる通常の学生と目的こそ違えど空間的にはぶつかってしまう虞があり、可能な限り手早く済ませる必要があった。
 ところが、欲をかいて再度今日の分の試験情報を以前のメモと照合していたことが悪かった。丁度次の時限からの試験に臨む層が自宅から詰めかける折と重なってしまったらしくいつの間にか混雑に巻き込まれ、駄目押しといわんばかりに試験終了の鐘を合図に大量の学生が背面へと一斉に押し寄せ、いよいよ本格的に身動きが取れなくなってしまった。
 二科目目の開始時刻まではまだ二十分弱あり、着席時刻を見積もっても遅刻の心配はほぼ無きに等しい。そうはいっても、やはり人混みの中の居心地は到底よいものとはいえなかった。顔見知りは、一人もいない。若者らしい新鮮な刺激に満ちた毎日の片鱗を垣間見せるリアルな会話が、孤独に慣れた精神をむさぼっていく。
 体が臭い、口臭がきつい、ふけがある……その気になれば、幾らでも粗探しができる距離。
 強引に人だかりを掻き分けるような真似など、こんな小心者にはする気概がない。時間の経過に沿って自然と人の捌けるのを待つより他に有効な手立ては残されていなかった。
 しかしながら、本当に他人の迷惑を考えない人間の何と多いこと。輪の内部に閉じ込められる余剰品のことなど知ったことではないという考えか。それですら、自覚があるかどうかも疑わしい。
 このような分別をわきまえない烏合の衆に前後左右を、それも密接せざるを得ない状況で取り囲まれている最中には、手荷物の防犯にも一層の注意を払わなければならなかった。何か消えてからでは遅いのだ。たすき掛けのベルトは切れていないか、肩にかかる重さに変化はないか、チャックは最後まで閉じているか、別方向から引っ張られる感覚はないか。それら一つひとつを小まめに点検しなければならない。
 肩ベルトは、接続部分も含めて異常はなし。念のため、長さを調節しておく。鞄の中身が減った形跡はなく、底に穴も空いていない。チャックは……
 それを掴んだはずの手に、ぬめりとした馴染みのない触感を覚える。
 ……何だ、これは。
 な ん だ こ れ は ?

「何かおかしいことしてないか、こいつ?」
「うおっ、きたねぇ! そんなもん付けたら冗談じゃ済まねぇぞ!」
「ふざけるなっ! お前らの誰かの仕業だろうがあぁぁっ! 数秒前には何ともなかったぞっ!」
 法学部の連絡ボード真下付近で、何者かがけたたましくわめき散らしている。
「は? 人が心配してやってんのに犯人扱い?」
「どうせ構ってちゃんだろ? 近寄らないほうがいいって。離れた離れた」
「待てやお前ら証拠隠滅すんじゃねええぇっ! 今名前と顔写真……片手、片手じゃ携帯が……ああああぁぁぁっっっ!」
 次第に状況を知らない野次馬が外側へと群がって壁となり、やがて逃げ遅れた周囲を巻き込んだ一大騒動へと発展した。
――僕は、見てしまっていた。今、人だかりの中心で誰彼問わず当たり散らしている彼、その彼に騒ぎの発端たる何かしらをこすり付けたのは、他ならぬ彼が疑いを向けた中の右端の人物だということを。
「とりあえず洗うのが先決だろ? ほら、見せもんじゃねえぞ道開け……押すなってば!」
「何だ? 鞄のほうにもこびり付いてんのか……触ったんだな。こりゃ、落ちるまで洗ったら水浸しだな」
「その隙に逃げる気だろうがぁっ! いいからさっさと名乗り出やがれ小学生レベルが! た、退学、退学……っ!」
 他には誰も気付いてないのか、それとも敢えて口をつぐんでいるのか……集団から一歩距離を置いた僕の目にそれがはっきりと映ったのは偶然以外の何物でもなかった。
「何アイツ? 自分のこと言ってね? チョー受けるんですけど」
 僕が本日大学構内に身を置いているのは、試験を受ける目的ではなかった。今日の曜日の一時限目に該当する法学部三・四年の授業には社会保障法と民事訴訟法の二種類が重なっており、後者の試験曜日は来週に回されている。そのため、僕を含めた後者の履修組でこの日の予定が入っていない学生を集めたレクリエーションのスポーツ会のようなものを早朝から開催しており、丁度その帰りに一連の事態へと出くわしたという次第だった。
 当然試験期間中であることに変わりはなく、一日中というわけにはいかなかった。しかし、大学のテストは思いの外講師陣が優しく、第一に日々の授業に取り組んでさえいれば得てして高得点を望める仕様になっており、経験上採点基準も比較的緩い傾向にある。通常講義における最終回頃には講師自ら具体的な出題範囲を紹介してくれるケースが一般的ですらあり、過去問を参考程度にこなした上で勉強仲間同士顔を突き合わせての問答や予想解答の作成などを済ませれば特別なことは何も要らなかった。むしろ根詰めたりした結果の寝不足やストレスからくる体調不良のほうが大敵であり、それらの解消も兼ねたスポーツ会合を同様の考えを持つ友人たちと企画したのだ。
 心地よい汗とともにほどよく頭もほぐれ、さあ、家に戻って明日の試験に備えた最後の仕上げだ……というところに、このごたごたである。
「あーあ、あの顔テスト中に浮かんできそう……今までの苦労水の泡」
「試験妨害のプロじゃね? 先生これで再試認めてくんねーかなー」
「とか何とか言っちゃってぇ、勉強してなくて自信ないだけだろー? つーか本気でそう思ってんならあれ無視してさっさと教室入れしっ!」
「てか、自作自演じゃなきゃフツーに考えて犯人真後ろのアイツじゃね?」
 外堀の各々が好き勝手にまくし立て、混乱の渦は勢いを増していく一方。
 故の有無は存じないが、思いもよらない災難によって精神の均衡を崩さざるを得なくなった彼。
 そんな彼にあらぬ罪をかけられ、ならばと腹を据えかね事の顛末を見届けるべく居直った学生数人。
 その彼らの中に何食わぬ顔して混ざった、犯人たる人物。
 そして、無関心な関心で以てそれらを取り巻く傍観者たち。
「ああ、ああ……っ! あぁあーっ!」
 ただのいち通りすがり。それ以上でもそれ以下でもない僕には、あの渦中に敢えて身を投じなければならない義務も責任もない。
 しかし、余力はある。
「誰だって! 言えよ早く! 名前と所属! ……あぁぁ〜っ!」
 この揉め事を収束すべく、僕に取り得る手段は何かあるだろうか。
 いたずらが高じた悪意の現場を目撃し、かつ試験は明日以降で時間に余裕のあるこの僕ならではの解決方法は何かしらないのだろうか?
「大したことじゃないからさっさと白状しちゃえばいいのに、ばっかみたい」
 所在なく両脇に垂れ下がっていただけの手を、ゆっくりと前方に向かって持ち上げる。
「テス……あぁぁっ! 何な、らああぁぁぁ〜っ!」
 僕にしかできないこと、すべきこと。それは……
「……犯人は――」
 射るような視線が四方八方から入り乱れて飛び交い、僕を軸に交錯した。

 まさか、これほどまでの大騒ぎになるとは夢にも思わなかった。
「名前、名前ぇ! 洗えないだろおおぉぉぉっっ!」
 頭がキンキン痛い。耳鳴りがする。遠慮なくそのことを注意できる身分ならば、とうにそうしている。
「いっそのこと、もう犯人後ろの奴全員でいいんじゃね?」
 予想外だったといえばもうひとつ、周囲の学生たちが騒ぎをきっかけに散らばるどころかかえってその輪を狭めていったことである。てっきりかかり合いは御免と我先に退散してくれることを見越してその流れに乗じての脱出を試みていたというのに、期待とは裏腹に逃走を阻むだけの障壁と化してしまった。
「ひょっとして犯人なら、何かしら証拠みたいなの残してなくね?」
 自分の平に付着していたたんは、こいつのバッグがごっそりさらっていってくれた。わずかに渡しそびれた分も少しこすればすぐに乾いて剥がれ落ちる程度で、目に見える痕跡は体のどこにもない。
 誰かがかまをかけて掴みかかってきたとしても、問題なくこの手で引き剥がせる。
 どのみち後十五分もすれば二時限目のテストの開始時刻である。そのときまでにはさすがにこの場の熱も冷めるであろうし、このまま不用意に動くことなくやり過ごすというのもひとつの方策ではあった。
 ところが今回ばかりはそうもいってはいられない。次の時限に試験を控えているのは自分とて同じ。初日の取りかかりに無残な敗北を喫した今メンタル面はボロボロで、これではとても二つ目以降に満足な結果を得られるとは思えない。落ち込んだ自信を取り戻すには直前の見直しを少しでも多くこなす以外になく、たとえ悪あがきにしろそうでもしなければ気持ちの時点で負けてしまい、八十分に渡る無言の緊張に精神の安定を図ることができないのだ。
 そう、自分はこの上なく臆病な人間である。だからこそ、悲観した気分が捌け口を求めるストレスに耐えられなかった。そして、仲間内にもしばしばそれを見透かされているきらいがある。平素はリーダー気質兼ムードメーカーで乗り切っているものの、時折覗く友人たちのこちらの提案に乗り気でない態度には何度心臓を縮めたことだろう。
 涼しい顔ばかりが浮かぶ海の上で、独りもがいた遭難者に平常心を保てというのが土台無理な話だった。
 だからといって、この期に及んで真相を告白するなど以ての外である。その機はとうに過ぎてしまった。確かに当初は大げさにわめくこいつ一人をさらし者に大多数が自分に加勢してくれるという絵図を描いてさえもいた。しかし、時の経過で煩わしさを覚えるまでに至った学生間に今となって蔓延するのは物見や嘲弄目的でなく、純粋な好奇心、言い換えればある物事の結末を今か今かと待ちわびる物欲染みた知識欲でしかない。目の前で繰られていく小説のページをただ見守るだけに徹した見物者はもはやそこに私の解釈を交えることをせず、紡ぎ手の思惑に沿ったストーリーをあるがままに受け入れる。人間関係もそこに内包され、加害者は加害者に、被害者は被害者として。そこに感情的な肩入れを挟む個人は既に存在しない。
 そんな空気が支配する中で自分が犯人だと打ち明けでもしたが最後、待ち受けるのはこいつの稚劣な振る舞いに対する非難をも集約した一方的な為手というレッテルのみ。いずれにしろ、試験に集中すべき神経に多大な損傷をきたし、このままでは今期の数単位どころかそのことが後々まで尾を引いて留年の憂き目すら現実味を帯びてくる。
 どうすれば、どうすればこの窮地を切り抜けられる?
「大体さぁ、あんな汚いモンどうやってピンポイントでつけられたわけ?」
 少しでも風当たりを和らげるためには、どうしたら――
「まさか一旦手に取ってなんて考えただけで『げぇ』だし……」
――そうだ。
「ひょっとして口から直接? んなバカなこと……」
 そうだった。その手があったじゃないか。
 何も馬鹿正直に自分のしでかしたことを白状する必要はないのだ。たまたま咳込んだ拍子に飛び出たそれの直線上を、不幸にもこいつの持ち物が遮っていたということにしてしまえばいい。事実、あの時手を差し入れなければそうなっていた可能性だって存分にあり得る。それ自体はわざとでも何でもないのだ。全ては偶然が生んだ不運な事故だったにも拘わらず、さも悪質な故意であったかのように認識されてとても言い出せなかったとでもいった風に。
 そうと決まれば善は急げだ。一刻も早くこんな空騒ぎを収拾し、次の試験に備えて最後の追込みを――
「僕、実は犯人知ってます!」
――出遅れてしまった。
 自供の前に、声高な告発者が名乗りを上げた。弾かれたように皆一斉に視線を向かわせ、衆目にさらされたその手が今まさに弧を描きながら胴の前に浮上していく。
 そして、天を仰いだ。

「すみません……鞄のここのこれ、何に見えます?」
 身動きがままならない密集状態で上半身だけを後方に反らし、向かって左端の学生にそれを指で示しながら尋ねる。同じものは、ここにもある。
 一帯のかしましい高談故か、はたまた声自体が小さいのか。学生がこちらに呼応する気配は一向に見られない。あるいは、無視を決め込んでいるのか。
 肩なりを叩いて注意を引けばさすがに耳を傾けてくれるだろうが、あいにく両手は塞がっている。右手は言わずもがな、もう一方は鞄のそれの監視に張り付いていなければならない。すし詰めで距離を取ることが困難である今、衣類や他所に被害を拡大させないためには片時の気の緩みも許されなかった。無論、次の攻撃に備える意味合いも兼ねてはいる。
 気を取り直し、今度は向かって正面に位置した学生に心もち声量を上げて話しかける。
「申し訳ありませんが、あなたの近くでたった今怪しい動きをした人物を見かけなかったでしょうか?」
「知りません」
 間髪をいれず、簡潔な切り返し。一見すると誠実な対応に映るものの、目すらくれないその態度には言葉少なに済ませたかったという印象がどうしてもぬぐえない。
「本当に今しがたで、どんな些細なことでも構いませんから……突然それまでとは違う向きに押されたとか、脇から手を差し入れられたとか……」
「テストで頭一杯だってのにごちゃごちゃうっせーな! こっちだってンなもん見てねーよ!」
 なおも食い下がるこちらに対し、反応を表したのは正面の彼からみた左手の人物であった。
「今のお前以外にな!」
――聞こえているじゃないか。真横にも。
 もしかしたら、敢えて口をつぐんでいるのではないか。最悪の場合、共犯かもしれない。だとすれば、不自然なまでにそっけない対応にも全て説明がつく。口ではああ言っておきながら、期間中の今頃になって掲示板で時間を潰しているような連中だ。どうせテストの準備をそれほど真剣にした奴らではあるまい。
 それなのに、うやむやにしようとしている。テストの邪魔だと、抗議を撥ね付けることに正当性を見出そうとしている。
 そして、なかったことにしている。
「ああああああぁぁぁ〜っ!」
 俺が、何をした。
「誰がこれをやったのかって聞いてんだろぉがああぁぁ〜っ!」
 皆が何事かと振り向き、口をそろえてささやき合っている。それがいかような興味でも、侮蔑だろうと構いやしない。事件沙汰になったところで俺には何ひとつ落ち度がないのだ。異常者扱いこそされども、一般道徳の見地からすればあらぬ言いがかりをつけたとして断罪されることはまさかないだろう。
 何も起きなかったことにされるのだけは、我慢ならなかった。
 狙いは功を成し、結果として容疑者数人をこの場に留め置くことはできた。
 ところが数分が経ち、その間幾ら詰め寄り問いただしたにも拘わらず、誰一人として口を割りはしないのだ。誰もが知らないと首を振り、そして己でもないと言い張る。次第に人だかりもばらけ、さすがにそろそろ試験の教室に赴かなければ危うい時刻になってきた。未だに残っている観衆は、恐らく次の時限の予定がないのだろう。
 しかし、この口がテストのことを切り出すわけにはいかない。そんなことをすれば、容疑者が追及を逃れる恰好の口実を与えてしまう。悟らせてもならない。黙っていればやり過ごせると、そう思わせてはならない。いつまでも縛り続けるという気概を維持しなければ吐くものも吐いてはくれない。
――いっそのこと、脅しをかけてみようか。これを、共犯者全員に返してやると。
 いや、ダメだ。そんなことをしたら立場が逆転してしまう。挙句、端から一人芝居だったと強引に結論付けられるのが落ちである。
 中だるみというのだろうか。観覧者たちの表情にも飽きが見え始め、こうなってくると途端に独り怒声を張り上げ続ける俺の姿が酷く滑稽なものに映ってくる。
 体力も、気力も、時間ももはや限界だった。熱した頭に耳からの言葉は輪郭を失い、ひと際沸いた驚呼の一団の要因ですら判別がつかない。いつ終わるともしれない一人舞台の一人相撲にほとんど精根も尽き果て、誰とも絡まずに空転し続ける歯車が自信の醜行に耐え兼ねてトーンを落としたそのとき、
「……犯人は、この僕です!」
 緩慢が覆った空気を、轟雷のごとき宣言が一瞬にして打ち破った。震撼にうごめく人頭の波間から、一本の腕が避雷針さながらに高々と天に向かって掲げられる。
 ついに見つけた。あいつが犯人か! ……アイツ?

「犯人はこの僕です!」
 見渡す限りの全員が、目を丸くしてこの一身を凝視している。
「テスト勉強のストレスでつい魔が差して……鞄に向かって唾液を吐いてしまいました! 誰でもよかったんです! まさかこんなに大事になるなんて……本当にすみません!」
 僕に下された使命とは、犯人の罪を肩代わりすることで一連のいざこざに終止符を打つというものに相違なかった。長時間の拘束が支障をきたす今日の予定もなく、あれから犯人である彼の仕草や表情をつぶさに注視したところ、罰に匹敵する自責の念は存分に感ぜられた。
 何より僕には仲間がいるのだ。どんなときでも僕のことを信じてくれる、この大学生活で手に入れたかけがえのない友人たちが。彼らにだけは真実を打ち明けてさえおけば、後はいかなる汚名を着せられたところでこの身は痛くもかゆくもなかった。
「唾液ぃ? 何をふざけたことを……」
「ええ! 自分でも何というバカな真似をしてしまったのだと反省しています! ですからこうして傍から逃げ出した後も、後悔に駆られて遠まきにうろうろしていることしかできなくて……申し訳ありませんでしたっ!」
 うっかりくしゃみをした拍子の事故ということにしなかったのは、それではあまりにも被害者の彼の立つ瀬がないと考えたからである。たかだか唾を仕込まれた程度であれほどの大立ち回りを演じておきながら、その上更に相手に悪意なしでは幾ら何でも不憫が過ぎる。どうせすぐに忘れ去られる日常茶飯事、この折限りは悪役に徹しても問題はあるまい。
「せめてものお詫びに、バイト代からいくらか融通します! 厚かましい願いとは思いますが、どうか今日のことはこれで許して頂けないでしょうか!」
 被害者の彼が、まだ何か言いたそうに口をわなわなと震えさせている。加害者の彼はまるで宇宙人でも見るかのように目を見開き、視線が合うや否やそそくさと顔を背けてしまう。このままでは弱みを握ったと誤解されてしまいそうなので、後々昼食でもごちそうになって貸し借りを帳消ししておこう。
 水を打ったように静まり返る空間内で、どこからか、ぱらぱらと手拍子がこぼれ出る。
 やがてそれは、この一角を包み込む盛大な拍手喝采の大音響へと変化を遂げた。
「よく言った、偉い!」
「何て度胸のある奴なんだ、おめでとう!」
「その上弁償まで……とてつもない度量の持ち主、まさしく男の鑑!」
「さあて、最高の気分でテストを迎えられるぞーいっ!」
 これで、全てが丸く収まった。物語の終焉を、破裂したくす玉のように外へと飛び散る人海のしぶきが歓迎する。祝福の後の残骸は、早いところ片付けてしまおう。裏側に張り付いたまま宙を舞いそびれた紙片のひとつやふたつ、丸ごと処分してしまえばよい。
 これからが一苦労である。試験勉強と並行して、仕事がひとつ追加されてしまった。
 友人たちに此度のあらましを納得してもらえるストーリーを章立てするためにも、今夜も徹夜だな、と思った。

 ……今回のひと悶着には、あなたもそこにたまたま居合わせていました。あなたはこの事件のいち当事者として、様々な事象を見聞きしています。
 さて、あなたは誰でしょう?

(完)


・おわりに

 完全に勢いで書いた作品です。一応、複数人の入り乱れた前後の視点から同じ場所のひとつの出来事を描写するという技巧面での目的はありましたが、それにしてもテーマがひど過ぎるとは自分でも思っています。しかしながら、実際にそういう妄想にとりつかれるのは日常茶飯事なので驚くほど滑らかに筆が進んでしまいました。

 ただひとつ残念なことは、“僕”に関する描写がひどく嘘くさくなってしまった点です。“僕”は善良で優秀で思いやりがあって正義感が強くて友人に恵まれて彩り豊かなキャンパスライフを満喫している設定ですが、あいにくそのような人物を描くだけの知識が決定的に足りませんでした。あしからず。とはいえ、それ以外の知識もとい“文字に起こしたいこと”はまだまだ尽きることはないので、知識不足を嘆くのはそれら全部を書き終えたあとにします。

(最後まで読んでくださり、ありがとうございました)


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