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天罰ゲージ(男女編)

アゲハチョウ

父が、私の中に入ってきた。
火照った情動に水を差す慟哭のスプリンクラーは、既に焚きつけるための油と化していた。

・目次

  1. 本文
  2. おわりに(作品内容に触れるため、本文読破後にお読みください)

・本文

 夜の女性の一人歩きは危険である。
 テレビも雑誌も、そんな文句を一生懸命に謳っていたのはいつのことだっただろう。
 残業帰りの明かりも疎らな真っ暗闇の帰路で一人、そんなことをぼんやりと思っていた。確かに夜は足元が危険ではあるし、昼間には姿を見せなかった虫が古ぼけたコンクリートの壁をやたらと這っていたり、チカチカとやかましい電灯の周りをうるさく飛び回っていたりするのに不快感を覚えないわけでもない。視界も悪いものだから、落し物に気付きにくかったり、接触事故が増加したりするのも当然の理といえるだろう。しかし、以前に散々連呼されていた、不謹慎だと表面上は憤りながらも世の男性ならば皆目ちゃっかり鼻の穴を膨らませてしまう意味での女性ならではの危険なことは、もう起こりようがなかった。
 携帯用の防犯ブザーも、痴漢撃退用のスプレーも、護身用の道具は何一つ携行していなかった。そんなものはかさばりこそしないものの、余分な荷物以外の何でもないからだ。以前のテレビや雑誌、討論番組や懲役中の犯罪者の手記などでは、『神聖な行為、男の本能』『当たり前のこと』などこの手の犯罪行為を肯定するような言論が、どこにでも立つ砂埃さながら我が物顔で制空権を支配していた。公共の電波を使ってまで著名人がそんなことを上気した顔で言いたがるのだから、色狂いの世の中とはよく言ったものだろう。
 不倫を推奨する趣旨の発言も、体中の廃棄物が一斉に口内に舞い戻ってくるような感じを催して酷く気持ちがわるい。そんな話題が出てくると、問答無用でテレビを消すようにしていた。隣で彼氏が不満顔をしていると、二秒間の猶予の後で引っぱたいてやったりもした。世界が変わり、性的倒錯を当然のことだと嘲弄していた連中に天罰が下った後となっては、さすがに彼氏も何も言わなくなった。
 レイピストだとか、強姦魔だとかいう言葉が世間を賑わせていた時代が終わったのだ。それは喜ばしいことでしかなく、決してがっかりするものではない。被害者の女性も求めているというのは、メディアで作られた幻想でしかない。こういった誤った情報がいつまでも途切れることなく尾を引いていると感じる出来事を見聞きする度に、ああ、この社会はまだ男尊女卑なんだな、と思った。でも……
「……世界は変わったのよ」
 足は一昔前の、郵便受けも一箇所にまとめられ、エントランスという概念も何も無い六部屋二階建ての小ぢんまりとしたアパートの前で止まっていた。防犯とは程遠い次元にある住居だが、今のご時勢にそんなものは関係なく、普通に暮らす分には何一つ不自由しなかった。周りの反対を押し切り、自分で決めた部屋である。ドラマでよく目にする洒落たモダンなマンションにも憧れもしたが、自分は合理主義者であり、結局は家の贅沢よりも日々の贅沢を取ることにした。近代マンションと比べて耐震や火災対策に難はあるものの、起こるところには起こることだと割り切っていた。
 辺りを見回すことはなかった。顔は進行方向のみに預け、薄い鉄板の床と、プラスチックの壁とで作られた安上がりな階段を、それなりの音を出して普通に上がった。昔ならエレベーター(ここにはないが)に乗り込む際にも、見知らぬ男が駆け込んでくることのないようにわざと乗り過ごしたりしてタイミングを計ったり、部屋のドアを開けるときにも、これまた不審な男を自室に招き入れる羽目にならないよう細心の注意を払ったものだった。
 だが、今は違う。ごく当たり前にキーホルダーを鞄から取り出し、周りをはばかることもせず、一連の動作に何も差し挟まず、滑るようにして鍵を回した。
 元から、注意も何も払っていなかった。だから、ドアを開けると同時に階段の下の陰から見知らぬ男が飛び出し、こちらが知覚するよりも早く目にも留まらぬ速さで駆け寄り、閉じかけていたドアに足を引っ掛けて力ずくで押し入り、石敷きの玄関の上に自分が乱暴に押し倒されたときにも、それを後悔することはしなかった。
 このような状況に陥った場合、被害者はショックで固まって声が出せなくなるか、恥じらいも何もなく暴れて泣き叫ぶのが常である。男性が日頃夢見がちな、自分が取り押さえておける程度にとりあえず暴れ、一線を超えさえすれば後は適度に嫌がる素振りを見せながらも体は正直に欲しがっている……というような都合の良いことはあり得ない。身をもって、それを知っている。メディアの害悪だ。
 仮に被害者が図太く、屈服することなく強い反抗の意志を示そうというものならば、幼稚な男性はその浮き草のようなプライドを保つために『死にたくなければ大人しくしろ!』とでも言うのだろう。
 案の定その決まり文句は、暗く、静まり返った室内に響き渡った。
「やめといたら? 死にたいの?」
 透き通った、清涼感を感じさせる声色。とても発情の最中にある男性によるものとは思えなかった。
 それもそのはず。たった今この言を発したのは上位に位置する加害者――男性の方ではなく、その古ぼけた重石を全身に敷かれた被害者の女性、他ならぬ自分自身だったのだから。
「か、体しか能のねえ、たかが女が、いつまでもうぬぼれてんじゃねえぞおぉぉ!」
 荒々しく息を巻いた男がまくし立てる。獲物を前にした獰猛な肉食獣の惚けた口からはぶつ切れることなく糸を引いた唾液が溢れかえり、粘性のそれらが顔面中にほとばしる。
 男は膝の下まである煤けたロングコート姿で、そのボタンを乱暴に引きちぎった後の姿を晒した。下には、何も身に付けていなかった。夜風が凍みただろうに、ご苦労なことだ、と思った。
「何が神様だ? 何が天罰だ? 何が嫌がってるだ? 冗談じゃねえ! 襲って欲しくねえなら、イスラム教の恰好でもしてろっつんだ! そっちから誘っておいて、事後は一方的に被害者気取りか? 感じてたくせにかわいそぶって、金まで盗ろうってか? この卑しい雌豚どもが! ふざけんじゃねえ! 男は顔じゃねえ、中身だ! 俺のほうがよっぽど上手いんだよ! 男と女は求め合うもんなんだよ! それが世の摂理ってもんじゃねえか? そこんとこどうなんだよ? え? 神様とやらあぁ!」
 事を急きながら、訳の分からない御託を一方的にわめき散らす、体の前面を全裸にした男。
 これほど醜いものは、この世にはない、と思った。
 ふと、男のゲージに目をやった。ゲージは既に、九十のところまで上り詰めている。もはや裁きがいつ下ってもおかしくない危険域だ。先の顛末が分かっておきながらこんな妄挙に走ったのも、十二分に頷ける。
 どうせ消えるなら、やるだけやってからいきたい。
 そんなところだろう。つくづく、男というのはなんと無様な生き物だろう、と思った。
 だが、男はゲージをちらりと見た後、一層歪んだ恍惚の表情で唇の端を大いに吊り上げてみせた。
「ほらみろ! 全然嫌がってねえじゃねえか! 神様は絶対なんだろ? 人間の本性を分かってんだろ? ん?」
 ああ、そうか。やはり、神とは大したものだ。今、自分がこの男に抱いている感情は所詮は侮蔑であって、恐怖や絶望といった類のものでは毛頭ない。他者を侮り蔑むというのは、あくまでも攻撃的な思考だ。それは怒りとも違う、被害者と呼ぶ者が持つには到底似つかわしくない、アグレッシヴな感情。
 被害感情など、起こりようがなかった。何故ならば、身の安全が絶対のものとして約束されているから。多少の歪曲は入るが、神の加護を受けているといってもよい。加害者となった相手の末路が、寸分違うことなき一本道だと分かり切っているからだ。怖くも何ともない。恐れても、怯えてすらいない。しかしそれ故に、こちらは純粋な被害者ではあり得ないのだ。
 よって、ゲージの変動は起こらない。相手の男からしてみれば、こちらが望んでいるものだと捉えられるのも無理はないだろう。身の保障が確約された上での、絶対的な安心感。だが、故に嫌がる理由も、助けられる理由もなくなる。すなわち、危険は危険のままとなる。
 神とは、杓子定規なのだ。
「変に芝居ぶらずに、最初から素直にしてりゃいいんだよ」
 ゲージがうんともすんともいわないのを見て、大いに安心したのだろう。それをいいことに、男はすっかり恋人気取り――そう、今時の、節操なしのカップルの関係にでもなれたのだと誤信したに違いなかった。余裕じみた表情を浮かべながら、先の焦燥とは打って変わった悠然たる手つきで、こちらの衣類に、新しい綻びを丹念に生み出していく。
 地の面積は、着実に稼がれつつあった。
「うぅ……」
 男は無言になっていた。いや、無心になっていた。こちらの肌をかき込むようにしてむさぼるその姿には、まるで一心不乱に餌にがっつく痩せ細った野良猫を見ているようで、哀れみの感情しか覚えなかった。
 正直、もううんざりしていた。これで何回目、そして、何人目だろう。どんな星の下に生まれついたのかは知る由もないが、今までに何度己の意思を圧殺されかけ、そしてその反動として、何人の男を消滅させてきただろう。
 いや、“消す”というのは欺瞞だ。神からすれば、消すという行為をそれとぴたり当てはめることができるかもしれないが、人には人を消すことはできない。人の世でいえば消えるとは死ぬこと、消すとは殺すことに他ならなかった。
 それがまた、たまらなく面倒なのだ。性犯罪に傾倒するようなどんなにたちの悪い男でも、どこかしこでは善人の仮面を被っていて、そこには少なからず良識人である家族や友人がいるのだ。更には、消した男が妻子持ちだったこともある。死に目にも会えず、死体もなく、残ったのはゲージに記録された不名誉だけ。誰が認められようか。誰が疑わずにいられようか。神を、いや……この自分を。
 残された相手のゲージを役所に持参して法的な死亡確認手続きを済ませ、事情を説明するために残された者たちと対面し、その悲嘆や憤怒を一身に受け止めなくてはならない。『仕方のないこと』『あなたのせいではない』と謝ってくる者もいるが、それはまるで、ピンのとれない手榴弾を丸飲みさせられている気分だった。
 もう、あんな面倒はごめんだった。そんなことになるよりは、コンピュータウィルスのような感情を一生背負っていくよりは、ただ、今この瞬間を耐え抜いたほうがよっぽど賢明だった。
 以前、室内ではなくドアの前で襲われたときには、その一部始終を隣の部屋に住む学生らしき若い男に覗かれていた。相手を“消した”後、学生は無言のままドアを閉ざしてしまったのだが、果たして彼に残ったのは教訓か、それとも興奮か。結局どちらだったのだろうか?
 いずれにせよ、もうすぐ人が来るはずだ。人が来れば、こんな小心者は尻尾を巻いて逃げ出すだろう。それまでの辛抱だ。
 だが……その後はどうなる?
 ここまでのことをされておいてなお相手が消えずに残っているというのは、ゲージ社会の指標でいえば、合意の上であることの証明に他ならない。そんな自分を、果たして周りはどう評価するだろうか?
 ここにきてようやく、空気と直に絡む肌に薄ら寒さを覚えた。
 その感覚に拍車をかけるがごとく、上半身では飽き足りた、いや、残さずたいらげてしまったのだろうか。男の手が、まるで前人未到の山に挑み、自身の痕跡を誇示しようと躍起になる見栄っ張りの登山者のように、その指の一歩一歩でハーケンをいたずらに、岩肌がざっくりと裂けんばかりに打ち付けるようにしながら、いよいよ未到達の膨らみへとよじ登ってきた。
「いや、やめて……」
 たまらず、本音がこぼれ出た。しかし、その吐息混じりの甘美な響きは、肌をまさぐる男の手を一層活気付けただけだった。
 男にとって女性の『いや』は『よい』の意味だという下らない俗説が、水を得た魚のように跳ね回る男の手を前にして、今更末恐ろしいもののように思えた。そして次第に、そうはさせまいと決め込んでいたにも拘わらず、心の中に雪崩れ込んでくる恐怖を止めることができなくなっていた。堰を切ったように、とめどなく流れ出る生の嫌悪感。
拍動の波の向こう側に、ゲージの上昇音をかすかに聞いた。
 何度も味わわされてきた、特有の痛覚。過去の忌まわしい残像がフラッシュバックし、視界を押し潰さんとする毛むくじゃらの肉塊と幾重にも折り重なる。
 無限の連なりを思わせるその残像の先に、養父ちちの姿はあった。
『アンタが現れたせいで、私の人生滅茶苦茶よ! アンタなんて……死んじゃえばいいんだわっ!』
 過去の自分が叫んだ。相手の男はやがて、視界の全てと化した。
 お前たちのせいだ。お前たちがいる限り、私は未来永劫幸せになんかなれないんだ――
「お前たちなんて、消えてしまえっ!」
 今の自分が叫んだ。すると、鎖のように連なっていた男たちの残像が、暗闇の向こう側から見えない手に引っ張られるかのようにして遠ざかっていく。ことごとく吹き飛び、漆黒の闇に霧散する。
 しまいには、誰一人として残ってはいなかった。おこぼれを頂戴しようと列を成していた幻覚の群れならともかく、たった今目の前で、もつれた胸毛にじっとりとした汗をしたたらせていたあの生身の男ですらも跡形もなく消し飛んでいた。まるで、実態の伴わない、中身のない幻と混同され、もろともかき消されてしまったかのように。
 カタンと、硬い物の床に落ちた音がした。遮るもののなくなった剥き出しの素肌の上を、玄関に迷い込んだ冷たい夜風がぶしつけに踏みつけていく。
 本来の静寂とともに残されたのは、持ち主を失ったことでその役割を果たし終え、安らかな眠りにつくようにして床の上に押し黙ったゲージが一つだけだった。
 ああ、またやってしまった――
「……寒い」
 乱れた呼吸を整え、はだけた着衣を体の前面に寄せ集めながら、ゆっくりと身を起こした。すぐさまゲージを拾い上げ、幾度となく繰り返してきたのと同じ操作を、慣れた手つきで素早く加える。闇の下りていた表示窓に明かりが灯ると、無機質に定型化された文字群が、その中にあっけなくさらけ出された。
『北原秋雄。今年四十歳。昭和四十九年八月九日生まれ。男性。血液型A型……』
 近年大いに叫ばれる個人情報の保護にはあまりにも無頓着なシステムだが、こうでもしなければ“被罰者”の身元は永遠に知りようがなかった。
 目当ての文字は、造作なく見つかった。
「『独身』……妻も子もなし、か……」
 安堵とも、呆れともつかぬ溜め息が出た。ゲージを再度床に放ってから、一休みしようと玄関の壁にもたれかかる。
 そのとき出し抜けに、水の勢いよく流れる音が部屋中に響き渡った。オーケストラの弦楽器を一斉にかき鳴らすかのような厚みを持ったその音からは、その勢いの盛んな様を容易に窺うことができた。だが、その割には突如鳴り響く非常ベルのように、聞くもの全てをはっと目覚めさせるようなけたたましさはなかった。むしろ逆に、朦朧とするあまりに肉体から遊離しかけた意識を、押し戻すどころか逆に引きずり出すような。そんなあやふやなものと進んで結び付き、互いにとけ合い混ざり合ってしまうような。それほどまでに軟弱な、同じくらいに微かな存在。
 近くからのようで、それでいてどこか、遠い空にこだまする無関係な喧騒のようにも聞こえる。こちらの眠気を誘うような、場違いに間の抜けた音だった。
 何ということはない。それはただ単に、水洗トイレを流す際に付き物の音。それがドアを隔ててくぐもって聞こえただけのことだったのだ。
 トイレのドアが開くと、汚物を絡みとる濁流特有の水音は大きくなり、その生理的な不快さを強く増した。
 漆黒の闇を裂くように照らすまばゆい光芒――トイレの黄ばんだ電灯の明かりに後押しされるようにして姿を現したその男は、救世主でも何でもなかった。
「あ〜、すっきりしたぁ〜。あれ、帰ってたんだ? おかえ……ええっ!」
 至福のひとときの余韻に浸った安らかな表情はこちらの装いを見るなり一変し、男は素っ頓狂な声をあげる。
「……出しといて、着替え」
 おもむろに立ち上がり、唖然と立ち尽くす男の脇でそう告げると、脇目も振らずに風呂場へと向かった。こんなうらぶれた姿態を、彼には見せたくなかった。自分が今、どんな顔をしているのかさえも分からないのならば、それは尚更だった。
「お、おい! ちょっと待てよ!」
 彼は、同じ部屋に一緒に住む、いわゆる同棲相手だった。

「……で、努力及ばず今度もまた消しちゃったってわけか」
 あれから何事もなかったかのように二人してソファーに居並び、ビール片手のテレビついでに受けた説明の後の第一声がこれである。
「『消しちゃった』って……こういうときはもっと他に言い方があるでしょぉ〜。『辛かったな』なんて優しく労わってくれるのが筋ってもんじゃないの?」
 これは確かに。我ながら気遣いが足りず申し訳ないことをした……などと今更謝るわけもなく、
「……ま、そういうところが好きになったんだけど、さ」
 こういう仲なのだ。自分たちは既に。
「とにかくこれは俺が明日にでも役所に提出しておくよ。結局のところ今でも日本は被害者よりも加害者主義だし、身元の秘密は守られるしね」
 携帯電話やスマートフォンというより、窓付きのトランシーバといったほうがしっくりくる手のひら大の機械を、両手でお手玉のように弄ぶ。
 加害者と被害者が、自分の言でもごちゃごちゃに感じられる。新しく法が定めたこの場合での加害者はその前での被害者、要は『消した側』なのだ。
「でも、やっぱり遺族に会いに行くわ。私だったら、こんな別れ方して絶対納得いかないし、腑に落ちないもの」
「よせよ。神経を逆撫でするか、被害者面して金でもむしりに来たと思われるのが関の山だ」
「それでも……」
「真面目過ぎるんだ、君は」
「だったらあなたは不真面目過ぎるわ」
 二人の間に、ふっと笑いの息が漏れた。建築年数相応に年をとったアパートは至るところにガタが生じ、天井に吊り下がったペンダント型の蛍光灯には網戸の隙間から入った羽虫たちが周りを我が物顔で飛び回る。質素倹約といえば随分聞こえはよいが、その実がめついだけに過ぎない彼女がこんなコンクリートの亀裂と毎度ご対面の時代錯誤な物件の賃貸を一人で決めてきたというのだから、さすがに当初は猛反対した。
 だが、住めば都といおうか、互いに大学を出たてで充分な蓄えもなかったことだし、こうして現に二人して狭い居間でテレビを見ながら語り合い、安物件のおかげで年に一度の旅行を楽しめるくらいの余裕が作れるようになった頃にはすっかりと腰を落ち着けていた。
 数年の暮らしで割り切った部分も多々あるし、さしたる不平も持ち合わせていない。ただ、一つ不満な点は……
「ん、ちょっと待った!」
 顔と名前を変えただけの代わり映えしないバラエティがぶしつけな演出に一段とやかましく物音をかき鳴らしたかと思うと、途端に彼女が……といっても機敏に腰を上げることはせず、膝を支点に不精にも体をそのまま前方に倒し、テレビの音量を一気に下げる。
「今、私たちのゲージ上がった!」
 時代遅れのブラウン管を背に振り向いた彼女は、縁起でもないことを言い出すのだ。
「は? 嘘だろ!? テレビがうるさいだけでまた? 増えるだけで減らす方法ないんだぞ!」
「いいえ、確かに今のはゲージの上昇音! 下の人、また怒らせちゃったみたい」
――ちょっとした物音や振動ですら、階下の住人に丸聞こえだということ。
 騒音はれっきとした公害の一類型であり、いわば住環境の悪化を招く。たとえそれが意図的でないにせよ……いや、その分余計にたちが悪い。人間が集団に支えられ初めて成り立つことを余儀なくされたこの現代社会、ほんの片時であれ近隣住民への配慮を怠ることなどあってはならないのだ。
 無論、たわいもないことで反応の度が過ぎる場合だって大いにあり、必ずしも被害者の言い分が常に支持されるとは限らない。自身を被害者だとのたまったとき、それは既に相手を非難するための方便でもあり、加害者たり得るのだ。そうなれば、ゲージが増えるのは向こう側である。もっとも、それを知る由はない。わずかな上昇はせいぜいが舌打ちあたりのささやかな忠告か、せめてもの痛み分けで済んだか程度に思っておけばいい。
 どうせ、もう減りはしないのだ。
 世界の変質は、ある日突然に訪れた。
 背丈ほどの小銃を肩に砲撃の合間を突っ切る少年にも、厳かな風情を醸す料亭の一室で国の将来を熱心に論じる年かさの男性陣にも、薄暗い部屋で昼間から不埒な行為に勤しむ骨張った体をした男女にも、自らを神と名乗る声が全人類の心の中に一斉に語りかけたのだ。悪に堕する輩が平然と跋扈するシステムにはほとほと辟易したと。道理が息絶えたこの不出来な世界には、やはり適切な管理者が必要だったと。
 そして、ゲージが振り分けられた。悪を選別し、天罰を下す神意の代弁者がビラ撒きのように空から大量に舞い降りた。それら一つひとつが担当となる人間を見初めるなり正面に回りこみ、向かい合ったその暗い窓に何やら目盛りを降り積もらせるための枠組みのようなものがぼんやりと表示された。盲目者への配慮は特になく、レース中のF1乗り相手にはメット越しに相対速度を保ち続け、密閉部屋で惰眠をむさぼっていた者が言うにははたと目を開けるなり視界上方から間髪いれず飛び込んできたという。
 当然初めは誰しもが高を括っていた。一見ただの電子媒体がいかなるときも何につかまるでもなく自分の頭上で悠然と宙を泳ぐ姿に若干の気味悪さを覚えこそすれど、慰みに指で叩けば安っぽい空洞を思わせる乾いた音が返ってくるだけのこんないかめしい携帯端末もどきに何ができるかと、日常に変化などきたすわけがないと、鼻で笑い飛ばしていた。
 変化する暇などなかった。
 一日とかからず、世界の全人口はゲージ登場前の80%を切った。組織の指導者的立ち位置でも従来からの引きこもりでも、警視総監賞の受賞者だろうとストリート住まいの子どもたちだろうと、特段繋がりもないありとあらゆる人種・階層の人々が気が付けばどこにも見当たらなくなっていた。まだろくにゲージの研究が進んでおらず、その仕組み――対象者の悪事を観測してメーターに数量化し、限界に達したら罰する――が浸透するまでにも、被害は更に拡大し続けた。質の悪いバラエティやドッキリ番組まで軒並み駆逐されたというのだから、ゲージのいう“悪事”の判別は相当広い範囲にまで及んでいた。
 誰も、誰にも何も言えなかった。文句を言うには神という偶像はあまりにも漠然としていて、かつ巨大過ぎた。ゲージ本体を壊そうと躍起になる者も決して数百、数千人単位ではなかったものの、それらも全て徒労に終わった。
 予期せぬ大量の欠員は、否応なしに社会の再構成を大きく促した。確かに、無自覚のポイ捨てですらゲージの一割を持っていく許容性の乏しい世界に嘆く層も多勢なものの、大多数の善良な市民にとってはむしろプラスの面が際立った。一発退場の危険性すらある空き巣被害の心配をする必要もなくなり、穴埋めという形で、母数自体の減少こそあれ失業率も大幅に低下した。元より過剰気味だった人口の削減で食糧問題も比較的改善し、サービスの需給もより均衡に近づいた。人々は、見知らぬ相手と接する際にもその人を自動的に性善な――ゲージの選別から漏れた人物として認識できるようになった。
 こうして、ゲージの厳罰と無関係な人々は以前と比べても何ら不自由のない、それどころか前以上に安全で穏やかな暮らしを送れるようになり、現在に至る。
「それはひとまず置いといて、例の話はどうだったんだ?」
 例の話とは、飽きるほどに幾度となく繰り返してきた話題という意である。
「うん……収穫、なし。実は、青いまま」
 気まずそうに、飾り気のない爪がビールの缶をカチンと鳴らす。それだけで芳しくない報告であることはすぐに分かったし、同じニュアンスの伝達手段にもバリエーションが出てきた。
「真っ赤に熟したのは、君のお父さんの顔だけ、か」
 当てつけがましく、目を逸らしついでにビールをあおって天井を仰いだ。
「父はやっぱり、私たちの結婚、認めないって」
 体中の血を噴き出さんばかりに紅潮しきった顔の、衰えを知らない胴間声が鼓膜の奥で余韻を鳴らす。
「なあ、俺の何がいけないっていうんだ? 稼ぎもある、貯蓄もある、人様に顔向けできない経歴でもない。この上で親父さんは一体この俺に何を求める? 何が足りない?」
 彼女とは大学時代からの付き合いで、今年でもう六年目になる。本格的に同棲を始めたのは互いの卒業後だが、当然それ以前にもやるべきことは済ませてあるし、今更籍を入れたところでそのことが劇的な変化をもたらすでもなくより確固たる社会上の名目を付与するだけに過ぎない。
 もはやそんな確認行為の意味合いしか残されていないにも拘わらず、彼女の父親は二人の結婚を頑として許すまじとする姿勢を一向に崩さないのだ。
「私だって知らないわよ、あの人昔からそうなんだし。第一、『結婚するなら双方の親に祝福されるべきだ』とかいって変にハードル設けたのはあなたでしょうに」
「それは、そうなんだけど……」
 彼女の父親は典型的な亭主関白で、日本の旧家父長制を現代にまで引きずり続ける堅物である。周りの家族に対し常に自身の思い通りに動く衛星であることを期待し、必要最低限にも満たない口数を貫き、それで周囲が心得なければ当然のように顔をしかめる。あうんの呼吸が成立することを微塵も疑うことなく前提とし、黙して、あるいは背中で語ることこそが威厳ある父親の条件であると思い込んでいる節すらあった。
 随分前に挨拶に訪れた際にも終始その具合で、ただただ『お前みたいな男に』の一点張り、ろくに会話すらままならなかった。玄関の顔出しも含め結局一度も居間から動かなかった夫の横で文句の色一つ浮かべることなく給仕に勤しんでいた彼女の母親のほうは二人の仲に対しそれなりに好意的で、実際目の前でその夫をなだめてくれたりもしたのだが、案の定、ひと睨みされただけで押し黙らざるを得なくなるという露骨な家庭内序列を見せつけられただけに終わった。
「……ハイ、辛気臭い話はこれでおしまい。どうせ私たちの関係がすぐに変わるわけでもないし、結婚してないからってある日突然見捨てたりしないでしょ」
 そう言って彼女は、話題から逃げるように目を閉じ、一息にビールを飲み干した。
 追加の催促を予測して独り立ち上がり、冷蔵庫の前までのそのそと足を運ぶ。扉を開け放し、流れ出る冷気を顔いっぱいに浴びるなり、倦怠に包まれた頭が唐突に速度を取り戻し始める。
 いつものことだとは思った。うんざりもしていた。ところが、たった今現実の悪寒とともに襲いかかったとある考えは、それらとはベクトルを異にする疑念ともいうべきしこりだった。
「なあ、ちゃんと本気で頼んでくれてるんだよな?
 冗談で済むうちに、口から外に吐き出してみる。
「変なこと言わないでよ。私だって早く落ち着きたいと思ってる」
「身長だって顔だって、十分人様の前に出せる。このうえ俺にどういう現実的な精進方法がある? どうすれば、親父さんが首を縦に振る真人間の条件を満たせる?」
「そんなに思い詰める必要ないから。あなたが申し分ない人格者だってことは、私が重々承知済み。違う人間同士なんだから、思い通りにいかなくたって仕方ないでしょう? だから、今は根競べの時期。そのうち向こうが根負けするって」
「そのうちそのうちって、君はいつもそればっかりだな……」
 最後の台詞に、返事はなかった。語尾に向かってしぼむような発言が、単なる独り言ととられたのかもしれない。つぐんだ口に代わって、缶を連打するせわしい指のうねりが如実に彼女の内情を発信し続ける。
 新しい缶を手に背後に立つものの、彼女の手がこちらに伸びてくる気配はない。
「むしろ、今がピークなのかもね。あなたの人格者としての」
 誰もいない窓ガラスに向かって、彼女が不機嫌につぶやく。
「これ以上時間が経てば浮気なんなりのボロが出ちゃうから、結婚を焦ってたりなんかしてたりして」
 好意的に解釈するとすれば、夜景を介して鏡面と化した窓に映った二人組に向けてといったところか。
「……何だよ、それ」
 本人としては、口喧嘩のついでの軽い嫌味程度のつもりなのだろう。だが、ささくれだった感情はその言を受け流すことなく敏感に絡めとる。
 今のは、彼女が無意識に漏らした本音なのかもしれない。元より結婚する気など更々なく、あの両親と口裏を合わせて話をひたすらに引き延ばすことで綻びを待ち構えているのだとしたら? 将来のあてのない漫然とした時間の流れに痺れを切らしたこちら側の、現段階では見出しようのないそういったの発言を待ち侘び、どん詰まりの迷路で地べたを掘り返すが如く飽きのきた関係の脱出口をわざと作り出そうとしているのではないか。それも、強行突破ではなく片側には決して傷の残らない抜け穴のような出口を。
 さすがにそれは意地悪く捉え過ぎで、あるいは単に社会的な枠組みを伴わない気楽な関係をもう少しだけこのまま満喫したいという、私欲的な動機でしかないのかもしれない。そう考えれば、彼女が夜の事に及ぶ際、神経質に毎度の予防を欠かさず要求してくる点にも納得がいく。
 だが、家に始まる諸事情を抱えているのは何も一方に限ってのことではない。進展のない、端からは惰性としかとれない間柄を繰り広げているだけとあっては、こちらの両親の見る目も俄然険しさを帯びてくる。工場に勤める三つ下の高卒の弟は、そこで知り合った事務の女性との間に一児を儲け、母曰く立派な家庭を既に築いている。大卒とはいえこの不況の折、入社後数年ではそれほど収入に差があるわけではない。これら複合的な要因が毎回の帰省の時季で味わう疎外感と結びついていることは言わずもがな、加えて本人たちは小言や当てこすりで最低限のコミュニケーションを済ましているつもりなのだから尚更たちが悪い。
 それに先ほど浮気といったが、捨てられるのを怖がっているのは男だって一緒だ。社会的なしがらみや拘束を何一つ持たない状況下でそんな心配事を微塵も抱かせないほどに、相手の心を完璧に理解しているとはてんで程遠い。落ち度の如何によらずとも、この期に及んで万が一にも彼女から別れ話を切り出されでもしたら俺の今後はどうなる? この数年を彼女一筋に入れあげてきたのは、職場や実家でも嫌というほど知れ渡っている。ときたまの誘いも、彼女をだしに何度無下に突っぱねてきたことか。こんな俺が、今更どの面下げて表を歩ける? 下手したら、アパートだって有無をいわさず追い出されるかもしれない。頑なに家賃の折半を拒んできかなかったのだって、初めからこれを狙っていたのだとすれば全てにおいて辻褄が合致する。
「……何、一人で勝手なことばかり言ってんだよ」
 抑揚のないつぶやきそれ自体は、一息吹きかければそれだけで隅に追いやられてしまうほどに小さく弱々しい。だからこそ怒りの震えによる振れ幅が計り知れないのであり、実際その揺さ振りは瞬時にして部屋一面の空気をクモの巣状にひび割り、生じたその隙間に沿って流し込んだ怒気が部屋中に根を張るが如く浸透する。
 彼女は振り向かなかった。薄っぺらな虚像と対面することを選んだ。それで構わなかった。
 わざとらしく口元を歪ませ、目つきを強張らせてみる。憤りを込めたそんな威嚇にも夜闇に浮かんだ彼女は眉一つ動かさず、その態度はもはや不機嫌を通り越して無感動、同じ部屋にいるのに意識が噛み合わない。こちらの放った意思は足下の側溝を流れていくだけで、人間そのものの階層からしてかけ離れているのだとすら思わされた。
 降り立つ場所もなく、宙吊りになったままのビール缶が絡みついた指の温度を執拗に奪い続ける。
 底の冷え切った今の気分を語らせるのに、このうえない適任だと思った。
 彼女のつぐんだ口が、耐え切れず短い溜め息を漏らす。ビールを逆の手に持ち替えて、空いた方の指の腹で彼女の頬肉を囲うようにしてつまみ上げたからに相違なかった。とはいえ最初の不意打ちを除けば、その後何度同じ動作を施しても彼女は意固地に再び無反応に帰り着いてしまう。
 こうなってしまった以上、後は意地の張り合いだった。指にぬるさを覚えるようになると、今度は缶本体を彼女の頬に押し当てて沈み込ませ、そのまま二、三転がしてみる。ちゃぷ、ちゃぷと中身の波打つ音に紛れて、小さな悲鳴がかすかに入り混じる。彼女の肌の弾力が、指を通して伝わってくる。
 ぴったりとくっつけたままの缶を輪郭に沿ってくるくると転がしながらあごの下へと潜り込ませ、そのまま首筋でぐりぐりとひと暴れさせてやるなり、たまりかねた彼女がとうとう押し込まれるがままに半身を埋めるようにしてソファーの海へと倒れ込んだ。
「ぎゃあっ! もうやめてぇ! 降参っ!」
 波打つソファーの上でひとしきり身をよじらせた彼女はたちまちに息を切らし、糸が切れて投げ出された人形のように力なく四肢を伸ばしきった無防備な体躯を視界の下に晒し出す。
 シャワーを浴びて随分経ったはずの裸の頬に、鮮やかな赤みがまざまざと蘇る。乱れた息を整えんとする深呼吸に伴う激しい胸の上下は、その下に覆われた肉感の躍動をこの上なく想起する。
 当然のように、邪な考えが頭をもたげた。いかに恋人間といえども本来打ち消して然るべきその我田引水な思考は解消するどころか、詭弁という名の正論で以てより頑なに理論武装を施されていく。
「もう駄目ェ、限っ界っ! お願い、許してぇ……」
 吹き出しながらの許しを請う彼女に望み通り詫びを入れさせるべく、ひと思いに彼女めがけて覆い被さった。
「ちょっとよしてよ! こんな気分のときに!」
 小刻みに震えていたはずの彼女の体がぴたりと動きを止め、心もち手足が意思を持ったかの如く急激に硬化し始める。
 それら塊をソファーの下地ごとしわくちゃに巻き込み、強引に掻き抱いた。
「……子どもが欲しいんだ」
 何か言いたいように、彼女の唇が形を変える。
「そうすれば、親父さんだって納得する!」
 その返事を待つことなく、即座に同じもので蓋をする。
 瞬間、電極のスイッチの先端同士がほんの少し触れ合っただけのような唐突さで以て、頭の片隅に巣食っていた理性や憂いといったものが一斉に蒸発した。まるで体中が骨組みだけの空洞になってしまったかのような、自分の中に突然ぽっかりと大空が生まれたような感覚。体内に流れ込む風は速度を落とすことなく冷たく吹き抜け、現実という足場を離れた危うい浮遊感がえもいえぬ爽快となって全てのものを軽く見せかける。
 口腔へと至る彼女の扉は、固く閉ざされていた。真一文字に結ばれたままのそれを無理やりにこじ開けるべく、合わせ目中央に狙いを定めて力ずくにねじ入れる。
 抵抗の力は推して知るべし、対抗せんと渾身の力を込めた舌鋒を支点に、意識によらずしてそのいきみが両の手足の末端にまでリンクしていた。知らず知らず彼女の体に見苦しいあざを刻むほどの並々ならぬ負荷を与えていたことに躊躇したのも束の間、構うことなく一点の攻防に全霊を傾ける。
 やがて、全身の力みが極限にまで達した故か微動だにすらしなくなり、一対の像が裾一つ擦れることもせず完全に硬直した。唯一耳に届くのは、両者の昂る心臓の拍動。確実に舌先が差し込まれるに従って上昇し続ける温度に焼かれた脳ではそれすらも遠く、うっすらと霧散していく。
 そして、何も聞こえなくなった。熱だけが、世界の全てになった。
 窮屈に重なった薄皮をこじ開けた先端が、なおも行く手を塞ぐ硬い前歯の表面をわずかになでる。傷一つない、真珠のような滑らかな質感。無機質の中に染み出す彼女の甘味が底なしの強欲を引き出してやまず、声を発することも忘れ一心不乱でお互いの武器を磨き続ける。
 そんな音のない二人だけの純粋で静謐な空間に、付け入る隙など皆無だった。ときたま起こる無粋で気の滅入る物理的な物音も、夢中になればそれだけで掻き消えた。存在を忘れようと、今まで以上の激しさを駆り立てた。
 その中において、どうしても頭から離れない夾雑音が、頭上に一つ。数十秒毎の間隔で聞こえるそれ自体は次第に音量を増すことをせず、控えめな構えを崩すことはない。
 まるで、気付かなければ気付かないでよいとでもいうかのように。気付かないほうが自業自得なのだと、それはそれで面白いことになると、そう蔑んでいるかのように。
 初めは、気のせいで済ませていた。肉体の沸騰がもたらした耳鳴りに過ぎないと、高を括っていた。
 日常の節々にしばしば挟まれるかの不釣り合いな電子音とは似て非なる音だと、そう思い込みたかった。
 念のため、彼女の体から一時的に意識だけを切り離し、頭を冷やして耳をすませてみる。
 冷やすまでもなかった。瞬時に、凍えきっていた。
 唇を引き剥がし、頭上を仰ぎ見る。
 そこでは、音もなく宙に浮いた一昔前の携帯電話大をした簡素な機械が、永久にも思える噛み殺した嘲笑いを幾重にも積み重ね続けていた。
 息を飲んだ。心臓が収縮した。気配を、存在そのものをこの場から抹消すべく微動だにすることをやめた。
 それでも、ゲージの目盛りはまたひとつ、上へと遊びをなくしていく。
 目の前の女の肩から数センチずれた位置でソファーを突き飛ばし、その反発に任せて玄関へと倒れかかる。
 外に出るなり、全速力で駆け出した。
 叫び散らすことも、力任せにドアを叩きつけることもできなかった。
 それだと、威嚇になってしまうから。攻撃だとみなされてしまうから。ゲージが、二度と戻らない“神罰”の指標が嬉しそうに小躍りするから。
 全身の血流が、恐怖へと成り代わったかのようだった。それを発散させる即時的な手段をとうになくしたこの世の中では、ただただ夜道を走り抜けるより他になかった。
(消される……あのままあそこにいたら、あの女に消される!)
 恋人のはずなのに、あんなことで消される。こうしている最中にも誰かと出会い頭に衝突でもしたら、前方不注意でそれだけでも消される。
 街灯の明かりが、ちっぽけな液晶の光と重なる。あの窓が全て灯った瞬間に、自分はこの世から跡形もなく消滅する。画面の空白が満たされたと同時に、俺という人間が空白になる。いや、俺の体こそが元々世界にとっては使途のないブランクでしかなかったのか。
 アパートから十二分に距離をとり、とりあえず足を止める。息を切らした全力疾走の直後だろうと当たり前のように頭上について回るゲージを辛うじて持ち上げた手で乱雑に引っつかみ、上昇が止んだことを確認するとひとまず息をつく。
――これから、どうしようか。
 アパートに戻るには、まだ恐ろしさが拭えない。手には携帯も財布もなく、それらよりも、入浴時等以外には常に身につける衣服以上に絶えず傍にある全人類共通のゲージが一つ残されるのみ。今のご時世なら野宿にも何ら心配はあるまいがと、思案に暮れていたところ……
「――お願い、待って!」
 今となっては、その声は夜風よりも骨身を凍えさせる。
 得体の知れない女が、俺を消そうとしたあの女が、恋人のような顔をして追いすがってくる。無論、彼女のゲージも一緒に。
 待つわけがない。
「待って! ねぇっ!」
 この苛立ちを、解消する術はない。近付けば罵声を浴びせずには、ややもすれば、手を上げてしまうかもしれない。誘っているのだ。望んでいるのだ。進んで被害者となり、相手を消すことを。
「待っ……」
 彼女の足音が、不意に途絶える。振り返ったときには既に、彼女の体はアスファルトの路面に擦れていた。
「お、おい! 嘘だろっ!?」
 表情を歪めながら自身の膝をさする彼女のもとへと、駆け寄るこちらのほうが顔面蒼白この上なかった。
 冗談じゃない。今の転倒まで俺のせいになるのか? あれっぽっちでゲージを増やされるようなことがあっては命が……いや、俺が幾らいても足りない。
「膝、大丈……」
 膝よりも、真っ先に目を引いたのは彼女の白い腕に残された見慣れない模様だった。
 あざだった。太い、男の指の形をしていた。
 例の男のものではない。ビールを飲み交わしていた時点であんなに目立っていれば、さすがに気が付く。
 さすがに、躊躇する。
 いまだそこに巣食う己のどす黒い痕跡を客観視したが故か、昂っていた感情がばつ悪そうにそそくさと抜け落ちていく。
 自分は、どの面を下げて被害者を気取っていたのだ。
「……平気。それより、こちらこそごめんなさい。ゲージが増える恐怖は、知らないはずがないのに」
 所詮、あの男と変わらなかった。恋人という名目の盾を剥がれただけで、こちらが傷つけられた気になっていただけだった。
「嫌とか、そういうことじゃないの。増やさないように頑張ったんだけど、どうしても嫌な思い出が頭から離れなくなって……」
 たとえそれが、現実にこの身を失う脅威と直結するにしても、相応の報いでしかなかったというのに。
「こちらのほうこそごめん! あんなことの後だっていうのに、一人で勝手に出来上がって……そりゃあ、幾ら何でも……俺でも、気持ち的にはどうしようもないってことぐらい……」
 誰かを傷つけた反動で自身も傷つけられるのではない。自らが選んだ身の破滅を強引に手伝わせているに過ぎないというのが、とある有識者がこのルールに下した見解だった。
「……ううん、違うの、そうじゃないの。あなたが悪いんじゃないの。私、あなたに内緒にしてたことがある」
 彼女だって、弱ってくれていた。親密な人間を文字通り失いかけた狼狽が、彼女の感情の放流に歯止めを利かなくしているようだった。
 こちらに言を挟ませることなく、彼女が口早に告げていく。いや、向こうからの弁解を期待した無自覚な沈黙が、それを促した。
「私、父とは血が繋がってないの」
 しかし、その内容も目下の状況ではいささか不釣り合いで、発言の意図をつかみきれない。
「離婚した母が、私が十三のときに再婚した相手が今の父親なの、だから……」
「だからって、その意向を蔑ろにしていいわけじゃないだろ。今は間違いなく君の父親なんだから。僕は、認めてもらえるよう今以上に心を砕く覚悟だってあるんだ」
――彼女の目に、軽蔑の色が影を潜めた。
 平素ならば単なる失望や落胆で済まされた程度の反応が、そんな思いを抱くことすら許すまいとする下手なプライドがとにかくにも攻撃行動へと転化したがる。
「……だけど、父は母のことを家事ロボットほどにしか考えていなかった。愛してなんていなかった。もっと、別の目的があった。存分に、叶え尽くした目的が」
 何か大きなものに肺を圧迫されたような、あるはずのない空気まで吐き出したかのような息遣い。
 それを最後に、彼女はぷっつりと押し黙ってしまった。テーブルの上に並び終えた材料で、たった一つの料理が出来上がるのを待っている。
 彼女の望む答えが分からなかった。望まない答えなら、それとなく解釈できるワードから頭の中にうっすらと生じていた。それは、あまりにもぞんざいな筋書き。いとも簡単に男をゴミ屑に描ける、安っぽいドラマ。
 何より、想起することすらはばかられる内容だった。良識を度外視した邪な考えを浮かべたこと自体、例の男とも体の構造が遜色ないことの証明であり、自己嫌悪の対象だった。それでも、記憶の中で頭一つ離れた父娘二人の体躯をそのビジョンに当てはめることを脳が阻まず推し進め、
「私、父に体を弄られてたの」
 そんな心を見透かされたように、想像の少女が息絶える寸前に、現実の彼女が重い口を開いた。
「そして、今もまだ狙われてる。結婚を認めないのも、多分そのせい。だから、あなたがどんなに頑張っても意味ないの」
 頭の中で、血まみれの少女ごとその男を切り裂いた。
「お母さんはどうしたんだ! 君の、実の母親なんだろう!?」
 夫に献身的な、もとい粛々と亭主の小間使いに甘んじる姿勢のせいか、年齢よりも老け込んだ温和な笑顔を思い出す。
「DVの傾向もあったし、体が弱くて経済上自立もできないから、仕方なかったんだと思う」
「君の場合は違う! 仕事もちゃんとしてるし、第一とっくに支配下から逃れてるじゃないか。昔のことで、必要以上に怖がる必要なんてない。もうあんな奴の許しなんて必要としてやるもんか。一刻も早く結婚して、別の人生をスタートしなきゃいつまで経っても何も変わらないだろう!」
 熱弁を振るった手応えが、つかんだ肩からこれっぽっちも伝わってこない。彼女の虚ろな目が、浅い溜め息とともに白々しそうに瞬きする。
「気の持ちようの問題じゃないわ。写真があるの」
 諦観と表裏一体の落ち着いた表情が、なだめるように声を出す。
「映像も。結婚したり警察に相談したりすれば、いつでもばらまく用意があるって」
『写真』の意味を、たった今ようやく把握した自分が腹立たしくてたまらない。
「――今すぐにでもあの男と話をつけて、全部まとめて奪い返してくる」
「やめて、無理!」
「無理なもんか。君ならともかく、腕っ節なら男で若い俺のほうが……」
 とうに、頭ではあの男に拳の雨を叩き込んでいた。顔の形が変わるまで殴り続けてとどめの一撃、粘土細工の顔面を粉々に打ち砕く直前に形を成した目の前の別の顔は、
「そんなことしたら、あなたが消えちゃうっ!」
 自分。
 真っ白に乾いた頭に、バケツの水をひっくり返したような悲鳴が降りかかる。潤った思考がそれを自明のものとして受け入れることに、そう時間はかからなかった。
「危害を加える、物を奪う……今の世の中では、そういった行動に着手した瞬間にも唐突に消えてしまいかねない。神様は、動機の勘案なんてしてくれない」
「現に、君が今もまだこうして苦しめられているっていうのに!? 何でこのルールの導入時に、適用対象を過去の行状にまで遡及させてくれなかったんだよ!」
 システム上、復讐という名目は既に存在しない。そこまでに値することをした当人が、もはやいることはないからだ。
「仕方ないでしょう? ルール開始時に昔の所業を、子どものいたずらにだって容赦しない今の厳しさでゲージに換算したらどうなると思う? 飛行機の操縦士だって、一国の首長ですら突然の神隠しに遭うかもしれない。高速道路なんか、車の半分以上が空っぽになるかも」
 ひとしきりの肩の震えが止まった後、ようようとして彼女が立ち上がった。
「――私も、あなたも消えてたかも」
 だから、過去頼みは用を成さないのだと彼女は告げた。
「私、今まで父の問題から目を背けてた。放っておけば、あの性格だからひとりでにゲージが溜まって自滅するんじゃないかって。でも、そんなに都合良くいかなかった。改心したとかじゃない、卑劣で狡猾だからこそ、リスクは冒さない」
 彼女の揺るぎない瞳が、開閉ばかりの唇以上に頑なな意思を放っている。
「暴力や窃盗みたいな実害がなければ、ゲージは思いの外優しい。保有データをうっかり流出させても、それを拾ってときたま思い出したように眺めてみても、実際に脅迫に用いたりしない限りゲージへの反映はごくわずか。そのことを恐れるあまり、どうしても一歩が踏み出せなかった」
 だから、今こそ決心したのだという。
「もう、こんなのはたくさん。さっきだって、あなたと結ばれたい、子どもが欲しい、でも父が怖い、私が見せものにされるかもしれない、街で指差されてるかもしれない……そんな板挟みで嬉しいことも苦しくなって、あのままあと一歩間違えてたら……」
 重なった、世界で一番醜い男の幻影ごと、自分を消し飛ばしていた虞があった。
 ならば、同じ一歩でも前に進める一歩にしたいと、彼女は夜空を仰いだ。
「……明日、一人で父と話をつけてくる。それで全部、終わりにする」
 その先にある街灯の光を、遮ることも目を細めることもせずに真っ直ぐに睨みつける。
「なら、俺も一緒に行くよ! 一人で行かせるなんて危険過ぎる真似は誰が何と言おうと許さない!」
「危険なのはあなたのほうよ。血が昇って一回でも手を出したりしたら、あなたの身に何が起こると思う? そんなことになったら、きっと私、一生死ぬほど後悔する。向こうだって、ゲージのことを考えたら酷い真似なんてできっこないんだし、心配することなんてないわ。これは、私自身が乗り越えるべき課題なの」
 視線を合わせない態度に、翻意の可能性を見出したのはお門違いだった。
 彼女は目を逸らしていたのではない。光だけを見ていた。
「……その代わり、約束して」
 明るい展望の開けた理想的な未来が、この手に届くことを確信していた。
「この先何があっても、一生私の傍にいるって。私を置いて、どこかへいなくなったりしないって」
――つまり、不意打ちは大歓迎というお達しだった。
 無防備に露になった彼女の細い首筋、その一点に、誓いの証を突き立てる。頭上の明かりが作り出す二人の影が、次第に隙間をなくしていく。
 蛍光灯の眩しさに踊らされる羽虫のことを、二人でいつまでも笑い合っていた。

 この道を、どんな思いで歩いていただろう。
 高校生の頃までは、毎日のように歩いていた家路。鉛を幾層にも塗り重ねた足を、引きずるようにして帰った日々の思い出が至るところで呼び起こされる。数年かそこらでは景色にさほどの変化はなく、むしろコマ送りを思わせる微妙な移り変わりが、記憶の奥底に封じ込めてもなお生き物のように暴れ狂う蛇の躍動を表してもいた。
 足取りが重いことと、学校に留まっていたいと思うことは同義ではない。こんな汚れた体をした自分に、居場所なんてどこにもなかった。今にして思えば一種の洗脳だったのだろうが、色恋沙汰や時折申し訳程度に試験の話題にふけるばかりだった能天気な同級生のことを、内心見下していたのもまた事実である。人並みの青春を謳歌する彼女らに歩み寄ろうにも、最終的に帰着するのが父のもとであることを思うと、一時的な享楽には何の価値も見出せなかった。
 一度だけ、男子生徒から想いを告白されたことがある。子どものように純粋な子で、自分を選んだ理由も他の女子と違ってミーハーに映らなかったという単純な尺度からだった。そんな彼とは、一度だけ相手をしたことがある。あざだらけの体を薄明かりの下に晒したときの、彼の顔が忘れられない。心まで剥かれた気になって父とのことを包み隠さず話した途端に、彼は泣き出した。こちらもすぐさま酔いが覚め、忘れてくれるよう泣いてせがんだ。その後も一晩中、二人して泣きじゃくっていた……
『――児ポルに突き出さなかっただけでもありがたく思いな』
 視界が、ぐらりと歪んだ。ひとたび気を抜けば、年月を逆行しそうになる。
 大丈夫。この動悸の激しさは、恐怖からではない。ただの緊張。今日で何もかもを解決するためには、それなりの行いが必要となる。
 やがて、鮮やかな模様を刻んだ高い煉瓦塀が囲んだ、瀟洒な一戸建てが姿を現す。今のご時世に泥棒などはとっくに死滅したというのに、門の上では黒光りを見せつけるようにして、監視カメラが執拗に回り続ける。
 警鐘として植えつけられた呼び鈴を鳴らすと、母の元気のない笑顔が出迎えた。事前に要件を通知したというのに、戦前の家父長的幻想に地続きな父が自ら来客を招き入れる姿など、この方一度もお目にかかることはなかった。
 そして、これからももう二度と。
 玄関から居間へと続く、塵一つ傷一つない接待用の廊下を他人行儀に眺めて歩く。
 一人掛けの背もたれ椅子に腰掛けたままの父と娘との対面を見届けると、母はそそくさと――さも今し方まで準備していたのだといわんばかりのせわしなさで以て、買い物のために家から姿を消してしまった。
 沈黙が、昂る心音をことさらに強調する。さすがに、色んなものをえぐる術を父は心得ている。
――明日一日だけなら、私で遊び倒してくれたって構わない。
 脂を伝わせる溝を無数に絡ませた父の手が、胸のあたりに這い上がってくる。
――その代わり、これで本当に最後にして。これ以上歳のいったのなんか相手にしても、いい気分なんかしないでしょ。
 しかし、実際につかむまでには至らず、座ったままの父の手はこれ以上伸びてこない。逡巡ではなく、警戒している。ゲージと自分とを見比べ、変化のないことを確認すると、あごでしゃくって接近を促す。
 世界の変質に伴い、廃れた職業は数知れず。そのなかで風俗が存続しているという共通認識こそが、これからの行動の大原則を構成していた。
 すり足で、ほんの少しのためらいを演出。どこまでなら許されるかの、腹の探り合い。指示通り目と鼻の先に棒立ちになってからでさえ、目線の合った下腹部を凝視するのみで父は一向に手を出さない。
 ここで、痺れを切らしてはならない。自分は固まって動けないのだ。言なく昔同様の従順な姿勢を肯定と捉えてくれよと、口を開かず祈り続ける。
 永遠にも感ぜられる視姦を耐え抜いてしばらく、ようやく父が、椅子とテーブルとの間で手足をつくよう次なる命令に移行した。子供ならいざ知らず、大人の体格にこの隙間はいささか窮屈が過ぎ、体の反転はおろか左右の身動きすらとれそうにない。
 そう思ったのも束の間。父が、椅子から転げ落ちてきた。
 ものぐさに立ち上がろうともせず、あたかも弱った足腰のせいで自重を支え損なったという風にこちらの背中めがけて全体重がのしかかり、なす術もなく四肢を折って体を床に飲み込まれる。
 家具の助力で身じろぎを完全に封じた上で、一点の衝撃にむせて咳き込む姿を、上からじっくりと観察されている気がした。
 もぞもぞとうごめく手つきが、真っ直ぐに張った体のラインを隅々までなぞる。生ぬるい吐息がうなじにふりかかり、毛根が根腐れしていく心地が襲う
 まだ、対価以上の嫌がりを生じてはならない。営利を目的とする接待の契約違反は、裏切りというれっきとした加害行為。お互い事の開始時にはゲージに敏感にならざるを得ず、些細な上昇値でも臆するには十分で二の足を踏ませる結果に繋がりかねない。
 水面を優雅に泳いでいる最中には、手を出してはならない。
『しっかし、俺もつくづく惜しいことをしたもんだ……』
 揺れる視界に、脳裏に焼きついた光景がフラッシュバックする。
『……あと一年早く出会ってれば、小学生だったのによお』
 骨身をむさぼった迫りくる記憶の濁流を、すんでのところで必死に押しとどめる。まだ、まだ早い。
 溺れた瞬間を、見極めなければならない。
“NO”が“GO”に変わる決定的なチャンスを、狙い澄まさなくてはならない。
『ピアノなんか習うより、女らしく弾かれるほうのプロになりなあっ!』
 張り詰めた弦を断ち切った際の余韻のような、力ない喘ぎ声が喉の奥からよろけ出る。
 父の体の脈動が、走りを加速させていく。一旦離れたかと思えば小休止もなしに、歪に縮こまった手足がねじ切れんばかりの悲鳴をあげるのもお構いなしに体を強引に半回転、仰向けに仕立てた娘を眼下に再び覆い被さる。
 砂場の砂を自分の山に根こそぎ引き寄せる子どもの強欲ささながらに、全身を隈なく両手で掻き抱く。血を求め肉を食む獣の貪欲さで以て、舌を磨き牙を研ぐ。
 熱気が全身を支配し、体力を、理性を燃焼剤にすげ替えた。
「いやあぁぁぁっ!」
 心根からの、天井に突き刺さる声量を伴って発した、認知可能な拒否反応。それが……
『よぉく言うよなぁ。嫌よ嫌よも――』
――好きに、なった。
 父が、私の中に入ってきた。
 火照った情動に水を差す慟哭のスプリンクラーは、既に焚きつけるための油と化していた。
――終わった。
 元々対価などなかった。父が自分をほしいままにしていたのは、世界の変質以前のこと。その頃の陵辱をゲージが罰せないというのなら、そもそもの脅迫からの解放という名目は前提を失った空論と成り果てる。父は、それを分かっていない。空っぽな写真や映像を理屈の根拠に、取引を持ちかけたこちら側に耐え忍ぶ責があると都合良く信じきっている。
 ところが、今回の行為は純粋な合意によるものとみなされる。口約束に違約金も何もない。土壇場の翻意も当然の権利となり、その主張を蔑ろに、意思を抑圧する資格は誰であろうと許されない。『生きたい』という文句を『死にたい』と受け取り、そのままに命を握り潰す常人などいやしない。
 だから、全てが完了したのだ。オーガズムに耽溺した安い男が、女の制止願望を額面通りに受け取るわけがない。
 ゲージは見えず、音も聞こえなかった。極度の疲労ゆえか、五感が満足に働かない。
 だが、確信はあった。父の輪郭が砂塵のように乱れ、遮られていた明かりが煌々と降り注ぐ。度々目の当たりにした同様の現象に比べ薄らと滲んで見えるのは、泣いているからかもしれない。
 悲しいはずがない。嬉しくてたまらなかった。全身の感覚が急速に抜け落ち、意識がぼんやりと遠のいていく。次に目が覚めたとき、自分は別の人生を始められる。新しい家族を手に入れられる。
 やっと、解放される――
 涙のしずくが、頬を伝うことなく床に落ちた。

 ご用の方は、発信音の後にお名前とご用件を――
「……だから僕の用件は、君の安否確認だってのに」
 彼女の実家へと歩を進める道すがら、一人そうつぶやき、苛立ちげに携帯を閉じる。
「……お前には、ろくな機能ないからなぁ」
 今し方手に取った機械より二回りは大きいのに、せいぜいがかさばる身分証明書程度にしか用立てのない頭上のゲージを恨めしそうに見やる。せめて、トランシーバ機能ぐらいは搭載してもばちは当たらなかったのではないか。
 正真正銘、どこでも一緒なのだから。
「……ちっ」
 舌打ちにゲージが無反応なあたり、いかにおごり高ぶった神様といえどもその辺の分別はつくらしい。
 これがあからさまにオカルトじみた憑き物だったり、現代世界を超越したはるか未来なり外宇宙なりの瞬間移動を繰り返す高度な科学機械だったりすれば、少しは諦めがつくのだろう。だが、一見それは人が手に負えるもの。叩けば響くし、握れもする見慣れた物体。それが天から釣り糸で垂らしたような軌道で人間の後を追い、決して置き去りにできず、壊せない。神様とやらは、人間の心を効果的にへし折る方法をよくご存知だ。
 そんな最高のストーカーが受話器なら、通信を取りっぱぐれる事態も起こらないというのに。
 連絡の繋がらない彼女の場所へと、足を向けている最中だった。時刻は既に夕方、いかに一筋縄ではいかない相手といえ、朝一番に出て行ったきりこうも音沙汰がないとさすがに不安が色濃くのしかかる。
 無論、ゲージ社会が身の安全を保障してくれることは認知している。だが、別のパターンはどうだろう。飛びかかってきた父親に恐れおののき、無我夢中になるあまり灰皿で頭をガツン、そこを物理的な被害度合いの差で彼女側が理不尽なゲージに見咎められて……
(――考え過ぎ、か)
 本当に体を危険から守らざるを得ないとき、すなわち向こうが消えるときだ。彼女がこの程度のことを見据えないはずがない。
 こんな冗談が浮かぶほどに楽観的な自分に気付き、心もち先の懸念も晴れていく。
 彼女の人生を弄んだ悪魔の根城が眼前にそびえ立つ。彼女はここで、幾たび泣きはらしたろう。何度泣き叫んだことだろうか。きっと壁や調度には、彼女の数年以来の悲鳴が至るところにこびりついている。
 耳をすませば、染み出してくるほどにも。
 玄関チャイムを鳴らすべく、指を近付けたときだった。
「いやあああぁぁぁぁ〜っっ!!」
 悲鳴という生き物は、この家から逃れられない
 間違いなく家の内部から女性の絶叫を耳にし、全身の血の気が失せる。静まり返った残響が、かつて少女の精神をむさぼった建物のせせら笑いにも思える。その口を塞ぎ直すべく、扉を蹴破る勢いで中に転がり込む。鍵は、開いていた。
 居間の前で、女性が膝をついている。彼女の母親だった。傍には、買い物袋の中身が散乱している。
「あなた、娘の……」
「何があったんですか? 大丈夫ですか!? 彼女は――」
 彼女の母親が、居間の中央付近をわなわなと指差す。つられて目をやるも、そこには何もなかった。
 ソファーの下に無造作に放置されたゲージが二つ以外、誰もいなかった。
 頭が、真っ白になる。神様ご自慢のゲージとやらも、ついにガタがきてしまったのだろうか。ゲージがその対象となる人物を自由にさせるなんて、見たことも聞いたこともない。
 それでも、この光景の意味だけは知っている。
「どこにいるんだ? 出てこい! 親父さんも、親子そろって悪ふざけはよして下さいよ!」
 トイレにも、風呂場にも、家中のどこにもいない。外の物置や、車の中にも。
 床に放り出されたままのゲージが、突如として甲高い電子音をけたたましく発する。消滅の場に居合わせた者に役所手続きを代行してもらうため、ゲージには一定時間経つと自己の所在を報知する機能が備わっている。
 ついて回る相手をなくしたゲージは、もはや動かない。
「いたずらはやめて下さい! そうだ、こんな地べたに転がるだけの鉄の箱なんて誰にでも作れる、現にそうやって死んだふりを試みた人がいたって以前ニュースで……」
 現実の目覚ましは、覚めるまでやまない。
「うるさいうるさい黙れ黙れ黙れっ! 消えろ、止まれ、今すぐここから失せろぉっっ!!」
 いまだ居間の入口で手を口に当て立ち尽くしている彼女の母親が、小柄な肩を蛙のように跳ね上げる。
「あ……あなたこそ、その音早く止めて。外に漏れちゃう……」
 狂乱の焦土に埋没した理性を、灰の中からとっさにかき上げる。騒音は、罪。神様の大好物。
 同時にわめき出したゲージを二つとも手に取り、叩き壊したい衝動に駆られるのを必死にこらえつつ一連の動作を施す。
 手の中で黙りこくったゲージは、すやすやと満足げに寝息を立てる移り気な赤ん坊のようにも思えた。
 泣き疲れた子どもは、一体どちらだろうか。
「……何で、動くんだよ」
 その後もこの指は規定の操作を加え、画面上にフルゲージ到達の詳細情報を呼び出した。
 父親の決め手は、いうまでもなく彼女への強姦。それも、抵抗し難い彼女の立場を存分に承知した上だったというのだから救いようがない。一方の彼女は……
“殺人”
 全身から、音を立てて血の気が引いていく。にわか雨が体中を打ち鳴らし、心の土台を削り取っていく。
「ふざけんなよ! それなら正当防衛だろ! そもそもそうなる以前にあのクソ親父が消し飛ぶはずだろうがっ!」
 よくよくデータを読み込むと、どうやら“殺人”というのは便宜上の分類に過ぎず、何も彼女が直接手を下したというわけではないようだった。
 システムを利用した殺人。
 裁断機が待ち受けるベルトコンベアの上に、気に入らない人間の足をうっかり滑らせる。公共交通というシステムに沿って運行する電車やバスの進行先に、虫の好かない隣の人間を何とはなしに突き飛ばす。本質的には、それらと何ら相違ない。自らが積極的に自動遠隔時限装置を講ずることもなく、どこまでも他力本願に、かつ思い立てば誰でも手軽に実行に移せる一切の特別な準備を要しない行為。言い換えれば、軽はずみ極まりない行い。
 悪くいえば、痴漢詐欺と同じだった。端から相手を陥れる目的だけで、被害者を気取るためだけにわざと近づく。異なる点といえば真実にその肌に爪を立てられる必要性だが、手の届く範囲に無防備な体をさらけ出すという意味で両者に差はない。多少の恥じらいと際どい素振りで食欲をそそるスパイスを香らせれば、後はただ待てばよい。
 待ちきれなくなるのを待てばいい。
 そうして自分は一歩も動くことなく相手から襲わせることに成功すれば、声高に被害者を主張することができる。蛇に睨まれた蛙がなす術もなくひき殺されたのだと、涙ながらに訴えるだけでいい。そうすれば、勝手に消えてくれる
 だが、ゲージは欺けない。
 罪の一片も、落ち度のかけらもない善良な市民の仮面を被った人間がしまい込んだ醜悪な感情を、ゲージは余すことなく適切に汲み取る。男側が過失なく愛情行為と信ずるに足る内心ならばゲージは反応を示さず、だからといってストーカーの妄想を後押しするほどに客観的な状況を無視はしない。あくまでも公平に、無慈悲なまでに純粋に悪意を検知する。
 だからこそ、襲われるほうが断罪されるという一見非近代の宗教じみた不可解な事象ですら起こり得る余地が存する。現代社会では、ゲージの到達が実質上の死と同義なのは誰もが知る共通事項である。ならば、意図的に自らを犯すよう仕向け、その咎を以て相手の抹消を目論んだ彼女の目的が決して殺人に等しいものではないと、どうして言い逃れできるだろうか。
 何も彼女一人ではない。気に食わない人間を世界から追い落とすためにこのような企てを、それもさもデパートでの衝動買いのように働いた事例は過去に何件もあるそうだ。だが、遺族はそれを認めない。消された女性は身の毛もよだつ体験による気の動転から自衛の反撃が過ぎてしまっただけなのだと、ゲージの機械的措置こそが理不尽なのだと言い募り、役所も同情からその意向を尊重する。その結果、対外的な発表からは肝心の真相がぽっかりと抜け落ちてしまう。もしも彼女が事前にそれらの情報を入手できていれば、あるいはこんな早まった真似には至らなかったかもしれない。
 いずれにせよ、仮にも一個の人間を単なる除去すべき人生の障害としてしかみなせなくなった時点で、彼女の末路は決まっていたという。
「何が公平だよ、どこが殺人だよ……あんな奴、殺したって当然じゃないか。彼女はずっと昔のことで苦しんで……脅されてたっていうのに……」
 今日の社会理論上、脅迫という概念は二重の意味で成立しないという。そもそも脅迫の材料となる行為にゲージが反応しかねない反社会的なものが多いのと、口先でいくら威嚇したところで脅しに屈しない相手方に対しては、現実に危害を加える行動へと移りようがないからだ。
 だから彼女は恐れる必要などなかったのだと。過剰防衛を隠れみのにした、報復に名を借りた軽薄な動機の人殺しに過ぎないのだと。彼が今なお罰せられるに値するかは、ゲージがとうに示していたと。それなのに私刑がまかり通ると思った、絶対無私の監督者をだまくらかせると思い込んだ彼女が愚かだったのだと。
「こんなちっぽけな機械を通しただけで彼女の何が分かるっていうんだよっっっ!!」
 彼女のゲージをカーペット上へと力いっぱいに投げ捨てる。柔らかい音で跳ね、一瞬たりとも表示が乱れ飛ぶこともなく笑い転げるようにして乱れた毛足の先をのたうち回るのみ。怒りに任せてフローリングに叩きつけていればもう少し小気味よく響いただろうが、そうなると床が傷つく。物損に繋がる。他人の所有物を、憂さ晴らしに破壊する。
 ゲージが増加する。
 悔しさに、拳を打ちつけることもできない。やるせなさに、地団駄を踏むことすら許されない。
 飼い慣らされている。受け入れさせられている。諦めさせられている。
 彼女の母親が、顔を覆ってしゃくりあげている。自分だって、唯一この場に忘れ形見として残された彼女のゲージを両手で力強く握り締めるしかなかった。
 どんなに力を込めても、握り潰すことは叶わなかった。

 あれから、一週間が経った。
 二人分のゲージの提出を彼女の母親から進んで引き受け、そのくせ彼女の会社への連絡等は役所任せにした。
 ありきたりな風に事務的に処理されていく様を見ていくら傷ついたところで、誰のゲージも動きやしない。
 一通りの義務を済ませて戻った安アパートは幾分しみったれて映ったものの、どこにも変わりようがなかった。彼女の今朝方出し忘れた洗濯物も、前日買い足したビールも、ままごとみたいにして、そこにある。ときたまの思い切った贅沢に備えて日頃から貯め込んだ預金の通帳記載残高もそのまま、これは通常の死亡時同様法律に則って彼女の肉親――母親が相続する。社会的な諸義務から逃れ続けたたかが同棲相手にそんな権利はないし、第一必要なかった。
 今の世界では、それで十分やっていける。犯罪対策費用もかからず、自然淘汰から必然的に資源配分の無駄もなくなる。おのずと金銭に執着するほどの価値は低下し、ほんのわずかな所得さえあればそれだけでよかった。
 大切な人さえ傍にいれば、他には何も要らなかった。
 朝方の通勤時間帯、雑踏が支配する大規模な横断歩道交差点の真ん中で歩を緩めながらふと立ち止まり、辺りを見回す。
 この人たちは、空っぽだ。犯罪の刺激も薄れ、義憤も忘れ、神様のお気に触らないことだけを考えて、しゃちほこばって生き長らえている。人がそうするように、ゲージもまた空の下を整然と連れ歩く。まるで流れる海のブイだった。人間は、もう空を飛べない。非日常を日常として受け入れた時点で、二度と未来は作れない。
 真横に停止した、行儀のいい運転手の大型トラックをしげしげと眺める。仮に、これが暴走するとしたら神様はどんな判断を下すのだろう。アクセルを踏み込んだとき? それでは遅い。歩行者はすぐそこだ。思い立った瞬間? 翻意するかもしれないのに? 一寸の猶予もなしに?
 詰まるところ、土台が不可能なのだ。いかに全知全能といえ、心を見透かすとはいえ、人間の行動は逐一コマ送りごとに確立して捉えられるものではない。子どもの喧嘩にしろ友人間の仲違いにしろ夫婦の修羅場にしろ、いっときの感情で誰かを傷つけたとしても、次の一秒後には笑って許し合えるのが人間なのだ。赤の他人同士にしろ、人は罪を悔いて優しくなれるし、その罪を受け入れてくれる社会だからこそ発展に寄与したいと強く願うのだ。
 それら機会を機械的に剥奪するしか能のない神の、どこが完全無欠か。真に裁くべき罪人と手を差し伸べるべき迷子人との区別さえつかない思考の、何が神か。てんで幼稚なふるい分けで、一体どれほどの原石を叩き落としてきた。
「返せよ……彼女を、返せよ……」
「なら、娘のところに送ってあげる」
 冷たくさびついた歯車が無理をしたような声が、寂れた胸中を狂ったように掻き鳴らした。
 振り向くと、彼女の母親が身構えていた。手には、刃物を抱えていた。人混みは、前だけを見ている。
 強ばった表情が綻ぶこともなくゆっくりと近づいてくる。
「ま、待って下さい! そんなことしたらあなたのゲージが……っ!」
 無論、ゲージは正確だった。こうしている間にも、彼女のゲージは音を立てて上がり続けている。ただ、いかほどの慎ましい人生だったのか彼女のゲージはほとんど初期値のままで、遊ぶ時間はそれなりに残されている。
「確かに、僕の力が及びませんでした! 彼女を守ってあげることができなかった。でも、あなたにそんなことをして欲しいとは彼女だって思っていないはずです! ですから……」
 説得するしかなかった。娘を失ったショックで凶行に走る彼女の考えを、一刻も早く改めさせなければならない。
 もう誰も、彼女のためにも、犠牲にするわけにはいかなかった。
「……あなた、本当に何も分かってない」
 彼女の口角が、泣くように、笑うように吊り上がる。
「娘なんかこの世からいなくなったってどうだっていいのぉっ! 私が本当に必要としてたのは……あの人っ! 夫だけだったんだからっ!」
 血走った眼で信じ難いことを言い出す。いつぞやの貞淑な女性は、どこに持っていかれてしまったのだろうか。
「それなのにあなたは『娘が』『娘が』『娘が』っ! 夫のことなんてこれっぽっちも気に留めない! あなたたち二人が共謀して殺したようなものなのに、罠にはめて貶めておきながら、罪悪感も微塵もない! あの女が『極悪人だから始末して』って頼めば、きっとあなたは誰彼問わず平気で殺しちゃうんでしょうね」
 人の流れが邪魔で、間合いが上手くとれない。レースのケープにくるむようにして構えていた刃物を、次第に体の前へと突き出していく。
「そりゃあ、あなたたちのような若い人からすれば、私たち年寄り夫婦なんてどうでもよく映るんでしょうねっ! うぶな恋心なんてとっくに枯れてるって、若者のためにひざまずいて道を開けるのが当たり前の捨て石にしていい人生だって、思いたがれるんでしょうねぇっ!」
 止めなければならない。話し合わなければならない。まずは、凶器を手元からもぎ取らなくては。
「それでもねえ……私は、私は……」
 感情の針が最高潮を振り切る瞬間を、何としても見誤ってはならない。
「あの人のことを、たまらなく愛していたのよぉっっ!」
――声が、破裂した。昂りが一線を越えるその境目が、見て取るように分かった。バネ仕掛けの肘が弾かれたように腕ごと前に引きずり出し、包丁の切っ先が迷うことなく風を切る、いや、こじ開ける。
「落ち着いて下さいおばさん!」
 一太刀で頭と胴を切り離すべく、頭脳と化した凶器が操る手足を解放せんと、なるだけ遠い位置で手首を押さえ込んで黙らせるために上体を勢いづけて前方へと傾ける。
 終わってみれば、一瞬の推移だった。
 確実に届いたはずなのに、手のひらは自分の対のそれとかち合った。彼女の細腕を、感触もなく忽然とすり抜けた。充分に助走をつけた薄刃が仕上げに蹴落としたかのように、彼女の体は跡形もなくいずこへと追いやられていた。
 どうということはなかった。ゲージが例に漏れず的確に働いた、ただそれだけのこと。
 だが、目先のベクトルの対抗に地面を蹴りつけ、反動のついた体は止まらない。
 彼女の固く握り締めていた包丁は、ごくしばし、瞬きすら待たずに自由落下に転じるほんの手前、向きを同じに誰のものでもなく宙に取り残された。行く手のつっかかりを前提に組み上げた体勢はいとも簡単にバランスを崩し、投げ出した格好になった両手が引っ張るようにして体ごと前につんのめる。
 寸分違わず垂直に立てられた刃に、この胸がわざわざかじりついた。
 倒れ込む直前とっさに腕を路面に突き立て、辛うじて杭打ちの形からは逃れたものの、食い込んだ異物を吐き出すこともままならない。膝を折り曲げ歩道に横たわった不格好な図体を、そこだけ器用に人々が避けていく。
 気付かないこと自体は、そこから悪意を形成しない限りは、罪ではない。幸か不幸か血は吹き出さず、信号は最後の変わり目、一日の義務に急ぐ通行者たちは誰もが消え行く青い光のみを注視し、皆が早々とこの背中を追い抜いてしまった。
 歩行者信号が赤に転じ、待ちくたびれたトラックが路上に浮かび上がった見慣れぬ小島に困りかねてクラクションを軽く鳴らすまでの束の間、時間にすれば数秒とかからなかった流動的な普段の街並み。
 体が主張を変えるには、それで十分だった。傷の痛みの変遷が、生きたいという渇望から楽になりたいという切望へと、欲張りに溜め込んだ血が心を塗り替えてしまった。
 合図があったかのようにして、周辺が唐突に騒ぎ出す。慌てて数人が赤信号の横断地帯に踊り出し、本来無関係な車道の走行までをも阻害する。
 このままこうして野方図に寝っ転がっていれば――交通秩序を乱し、周囲の人間への畏怖を与え続ければ、ゲージが救ってくれるかもしれない。じわじわと体から抜け落ちていく生々しい現実感に怯え、崩れると分かりきった崖に必死でしがみつくことを余儀なくされるより、一瞬で、前触れもなく、ワープロ上の文字のような気安さで消し去ってもらいたい。
 ところが、丁寧に視界の高さまで降りてきたゲージはぴくりとも動かない。お節介にも、大丈夫ですかと駆け寄ってくる人がいる。怪我で動けないから不可抗力とでもいうのだろうか。余計なことに、今救急車が来ますからねとも。杓子定規を装った底意地の悪さを感じる。介抱の輩も必死だった。重傷人を無視すれば、神様にどんなお叱りを受けるか分からない。双方に漂う緊張感は、傷口にすり込む粗塩でしかない。
 助けるのなら、被害者役に回って欲しい。そうすれば、ゲージが溜まって早く楽になれる。意固地になって駆動し続ける空気の読めないロボットの電源を落とすみたいに、身の程知らずにあっさりと終止符を打てる。
 精一杯の醜さを押し出し、それこそこの世のものとは思えない――追放するにふさわしい不快感を演出。ようやく滲み出た血液のありったけをこの手にまみれさせ、敢えて傍らの女子高生の真っ白に覆われたくるぶしに巻きつける。
 さあ、顔を真っ青に振りほどいてくれ。前後もなく後ずさり、何なら足蹴にしたって大歓迎だ。泣きわめいて助けを乞い、どこまでも無様で迷惑なこの死に損ないの存在を真っ向から全否定してくれ。
 しかし少女は両手で握り返し、もう少しの辛抱ですと。息も絶え絶えな物乞いを無下に突き放すのはさすがに良心の呵責があったか、もしくは、単に神様への一人芝居か。
 あるいは、こんな地べたを悶え這う虫けらなど取るに足らないと。攻撃されても痛くも痒くもないとでも。踏み潰すか見逃してやるかをその日気分で見下ろして判断するだけのしがない憐憫の対象でしかないと。どんなに衣類を食い破るように見つめても、スカートの中を覗き込んでよだれを垂らしても、面倒でこそあれまかり間違っても何かを加えられる立場にはないと、沸き起こる不愉快も防衛いらずの自己完結だと、恐るるに値しないと、むしろ恐れてやったらかわいそうだと。
 ゲージは頑として喋らない。悪事すら働かせてもらえない。あがきとしか受け取ってもらえない。
 いつになったら、がんじがらめの苦悶の帯から自由になれる? たった一度の行き違いも許さないこの世の中で、彼女のいないこの世界で自分は後どのくらい待てばいい?
 誰にも見向きされなかった不機嫌なゲージが、うなるような声を上げ出した。

(完)


・おわりに

 正直者が馬鹿をみるこの世の中、誰でも一度は他力本願ながらこのような“天罰”のルールを夢みたと思います。誰もが教育課程で習うはずの倫理道徳にもとっているにもかかわらず他人を平気で貶め、それでいてこちらからは咎められる姿の見られない人物を歯噛みする思いで眺めた経験は一度や二度ではありません。大抵の創作物では似たような仕組みは行き過ぎたディストピア物語として幕を下ろしがちですが、わざとらしいシステムの暴走や杓子定規を経てのそれなのでいまいちすっきりしないかたも多いのではないでしょうか。

 タイトルの括弧書きである“男女編”についてですが、当初は同じ世界観でのシリーズ化を予定していたもののこの一作を書き終えた時点で満足して飽きてしまい、結果として名残となったものです。昔読んでいた漫画で『○○○戦記 光の変幻編』というものがあったのですが、“編”と付いていながら結局その一作で終わって拍子抜けした経験がありました。

(最後まで読んでくださり、ありがとうございました)


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